↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
38/40

第38話 最後の毒杯

六鎖は完成した。

この大梁国において絶対不可侵であったはずの皇帝の権力は、一介の女官の衣を纏った柳青蘭の手によって、完全に包囲されていた。

御史台、大理寺、宗正寺、禁軍、そして皇族。国の根幹を成すあらゆる機関が、皇帝・景煬(けいよう)帝の犯した「統治という名の略奪」を法廷で裁くことに同意したのだ。


重苦しい静寂に包まれた正殿で、玉座の景煬帝はふっと息を吐き、自嘲するような冷たい笑みを浮かべた。


「……見事な手際だ。まさか、私が自ら作り上げた国家の機構に、私自身が喉首を締め上げられる日が来ようとはな」


景煬帝は、ゆっくりと玉座の肘掛けから身を起こした。

その顔に、権力を失うことへの見苦しい執着や恐れはない。あるのはただ、自らが盤石だと信じていた計算式が、ひとりの女の執念によって崩れ去ったことへの、空虚な諦念だった。


「祖法に基づく公開審問。この私を、愚民どもの前に引き摺り出し、罪人として裁き、歴史に汚名を刻むと言うのだな」

「それが、法を犯した者が負うべき責務です」


青蘭の迷いのない言葉に、景煬帝は冷ややかに目を細めた。


「だが、私は天子だ。どれほど証拠が揃おうと、貴様らの用意した下賎な土舞台に立つつもりはない」


そう言うと、景煬帝は自らの懐から、見事な金細工が施された小さな杯と、美しい瑠璃色の小瓶を取り出した。


「へ、陛下……!? それは……!」


拘束されていた張徳海が、血走った目で絶叫した。

周囲の廷臣たちや近衛兵も、一瞬、帝の行動の意味が理解できず硬直した。


景煬帝は、静かな動作で瑠璃色の小瓶の蓋を開け、金細工の杯に無色透明な液体を注いだ。

致死の猛毒。

万が一、反乱軍に都を落とされるようなことがあった時、皇帝としての尊厳を保ったまま自害するために、常に懐に忍ばせていたものだった。


「私を降ろした後の国は、景玄、お前に任せよう。……私は、悲運の病に倒れた哀れな皇帝として、崩御する」


景煬帝は、薄く笑いながら毒杯を口元へと運んだ。

青蘭は、息を呑んだ。

ここで帝が自死すれば、どうなるか。

歴史には「心労により急死した悲劇の君主」として美化されて記録されるかもしれない。横流しや略奪の罪はすべて張徳海ら宦官の専横として処理され、帝の冷酷な思想の犠牲となった父や、罪を暴こうとして死んだ兄の無念は、永遠に「仕方のない犠牲」として有耶無耶にされてしまう。

死んで、記録から逃げようとしているのだ。


『――止めるな、青蘭』


ふと、正殿の時間が凍りついたように遅くなった。

青蘭の耳元で、漆黒の精霊・烏露の甘く冷たい声が響いた。

彼はいつの間にか青蘭の背後に立ち、その細い肩を背後から抱きすくめるようにして、玉座の帝を見据えていた。


『飲ませれば終わる』


烏露の囁きは、ひどく蠱惑的だった。


『奴が死ねば、お前の復讐は果たされる。六鎖の審問などという面倒な手続きを踏む必要もない。奴は自らの罪の重さに耐えかねて死ぬのだ。……ただ見届けてやればいい』


それは、烏露が青蘭に差し出した、最後の「毒」の誘惑だった。

自らの手を汚さずとも、敵が自滅していく。その死を黙認し、肯定するだけで、すべてが片付く。


「……」


青蘭は、袖口の下で、黒く脈打つ毒痕の痛みを握りしめた。

確かに、帝が死ねば楽になる。

だが、それは裁きではない。

現実を捻じ曲げ、都合の良い死によって記録を操作してきた張徳海のやり方と、何ら変わりはないのだ。


「……ふざけないで」


青蘭は、烏露の冷たい腕を振り払い、弾かれたように玉座の段を駆け上がった。

近衛兵たちが止める暇もなかった。


「な、貴様……!」


景煬帝が驚いて目を見開いた瞬間、青蘭は一切の躊躇なく、その細い腕を振り抜いた。

ガァンッ!!

甲高い金属音と共に、皇帝の手から金細工の毒杯が弾き飛ばされた。

杯は冷たい石の床に転がり、透明な毒液が玉座の絨毯に虚しく染み込んでいく。


「無礼者ッ! 誰が私の死を止めろと――」

「終わらせません」


青蘭は、激高する景煬帝を真っ向から睨み据え、その言葉を鋭く遮った。


「悲運の病死? そのような綺麗な言葉で、あなたが帳簿の上で殺してきた者たちの記録を上書きさせるものですか。……あなたは死んで逃げることなど許されない」


青蘭の瞳の奥に燃えるのは、私怨の炎ではない。

国を回すための数字として民を処理してきた、絶対権力者の傲慢を打ち砕くための、冷徹で気高い意志の光だった。


「裁きは、死より重い」


その言葉は、正殿の空気を震わせ、玉座の上の皇帝を完全に沈黙させた。

死による名誉の保持すら許さない。生き恥を晒し、自らの犯した罪のすべてを法廷で解体され、歴史に永遠の「罪人」として記録される苦痛を味わえと、青蘭は宣告したのだ。


『……』


玉座の傍らの影で、烏露は息を呑んでその光景を見つめていた。

彼はずっと、青蘭の「殺すな」という命令を、人間の浅ましい偽善や、血を見ることを恐れる脆弱さだと思っていた。

だが、違ったのだ。


(そうか。……お前は、死という安易な救済を、彼らに与えたくなかったのだな)


烏露の漆黒の瞳に、初めて、人間という存在への真の理解と、底知れぬ歓喜の色が浮かんだ。

柳青蘭が望んでいたのは、命を奪うことよりも残酷で、毒よりも深く相手を蝕む「真実の記録」による永遠の断罪。

命令ではなく、彼女の魂の底にある、氷のように冷たく純粋な「願い」の形を、毒の精霊はここで初めて理解した。


『……ああ。お前は本当に、恐ろしく美しい生き物だ、柳青蘭』


烏露は、誰にも聞こえない声で低く笑い、陶然とその場に跪いた。

もはや、彼女に毒杯は必要ない。

彼女自身が、この腐敗した大梁国を根底から解体する、最も純度の高い劇薬なのだ。


床に転がる空の毒杯を見下ろしながら、景煬帝は力なく玉座に崩れ落ちた。

彼を死の逃避から引き摺り戻した青蘭の背中を、景玄王と廷臣たちが、ただ圧倒的な畏怖を込めて見つめていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。