第37話 帝の論理
大理寺の近衛兵たちによって、かつて絶対的な権力を誇った内侍省長官・張徳海が引き立てられていく。
その光景を、正殿の玉座に座る景煬帝は、まるで退屈な余興でも眺めるような無機質な瞳で見下ろしていた。
殿内は、張徳海の退場によって一時的な静寂を取り戻していたが、その空気は以前よりもさらに重く、張り詰めていた。
柳青蘭の背後には、宗正寺の老官・段承礼が進み出ている。彼の手には、帝を公開審問にかけるための『宗正寺の祖法認定』の証が握られていた。
さらに、開け放たれた正殿の扉からは、病弱なはずの皇弟・景玄王が、多数の皇族たちを伴って堂々と歩みを進めてきている。その手には、紛れもない『皇族三名以上の連署』があった。
「御史台の正式告発状、大理寺の司法印、宗正寺の祖法認定、皇族の連署、そして被害地三州以上の物証……」
景煬帝が、玉座の肘掛けに頬杖をついたまま、低く、よく通る声で数え上げた。
「私の権力を縛り上げるための『六鎖の祖法』。……まさか、建国以来一度も使われたことのない古い鎖を、たった一人の小娘が本当に繋ぎ合わせるとはな」
「まだ、最後の鎖が残っています」
青蘭は、玉座を見据えたまま、凛とした声で応じた。
「武力を統括する、禁軍大都督の不介入宣誓です。……大都督!」
青蘭の呼びかけに応じ、正殿の壁際で控えていた屈強な甲冑姿の将軍が、重い足取りで中央へと進み出た。
彼は玉座に向かって深く一礼した後、自らの帯剣を外し、床に置いた。
「禁軍は、法と国家の守護者。これほどまでの完璧な証拠と手続きが揃った以上……この審問に対し、一切の武力介入を行わぬことを、ここに宣誓いたします」
その言葉と共に、最後の鎖が、完璧な形で帝の権力に巻き付いた。
逃げ道はない。武力で制圧することも、新たな勅命で黙らせることも、もはや不可能だ。
「……見事だ、柳青蘭」
景煬帝は、決して慌てることなく、むしろ感心したように小さく拍手をした。
「お前が示した証拠の数々。救済米の横流しも、地方の重税も、すべて私が張徳海に命じたことだ。悪事と呼ぶなら、否定はせん」
「陛下……! あなたは、自らの民を飢えさせ、私欲のために殺したというのですか!」
景玄王が、悲痛な声で叫んだ。
だが、景煬帝の瞳に、罪悪感の色は微塵もなかった。
「私欲? 馬鹿を言うな、景玄。私が集めた富は、すべてこの国の軍費と、防壁の改修に消えている」
景煬帝は、ゆっくりと玉座から立ち上がり、廷臣たち、そして青蘭を見下ろした。
「若い頃、私はお前たちのように『清く正しい国』を目指した。だが、結果はどうだ? 貴族たちは既得権益を手放さず反発し、軍費は枯渇し、国境からは蛮族が押し寄せた。正しさだけで、国は回らなかったのだ」
帝の言葉は、ただの自己弁護ではなく、彼が玉座で経験してきた血みどろの現実そのものだった。
「だから私は、腐敗を『統治の道具』として使うことにした。悪徳官吏にわざと民から搾取させ、その富を都へ吸い上げる。暴動が起きれば、その官吏の首を刎ねて民のガス抜きにする。そうやって国庫を潤さなければ、この巨大な大梁国は、とうの昔に内乱と外敵によって滅びていた」
景煬帝は、まるで冷酷な計算式を語るように淡々と言い放った。
「民は飢えても、また数年すれば増える。官は腐っても、いくらでも替えが利く。だが、軍費が尽きて帝位が揺らげば、国は割れ、数百万の命が血の海に沈む。……ならば、末端の腐敗による数千の死など、国家を維持するための『必要な犠牲』だ」
帝の論理。
それは、数字と効率だけを突き詰めた、氷のように冷たい統治の真実だった。
正殿に集まった者たちは、その圧倒的な重圧を前に、誰も言葉を返すことができなかった。
「柳青蘭よ」
景煬帝の視線が、青蘭を真っ直ぐに射抜いた。
「お前も、法廷に立つために死んだ兄の名を盗んだだろう? 嘘をつき、法を犯してまで、己の目的を果たそうとした。……私は国を守るために、民の米を盗ませた。何が違う?」
玉座からの、最も鋭利な問い。
お前も私と同じ、目的のために手段を選ばなかった罪人ではないか、と。
「……確かに、私は嘘をつきました」
青蘭は、袖口の下で、黒い『毒痕』の刻まれた手首をぎゅっと握りしめた。
兄の官符に触れる。
「私は法廷に立つために、兄の名を盗み、嘘をつきました。……ですが、陛下」
青蘭は、真っ向から景煬帝を見据え、一歩前へ出た。
「私は、法廷そのものに立つために嘘をつきました。陛下は、法廷そのものを消すために嘘をついた。それが違いです」
青蘭の声は、女の細い声でありながら、正殿のどこにいるよりも大きく、強く響いた。
「あなたは、数字と記録の上だけで国を計算し、命を重さで量った。ですが、あなたが『必要な犠牲』と呼んだその数字の一つ一つには、飢えに苦しむ顔があり、理不尽に殺された無念の声がありました。帳簿の空白に沈められた彼らの声は、決して消え去ることはない」
青蘭は、背後に立つ小翠や阿梨たち、そして、今もどこかで法を信じて戦っているであろう梁景明たちの顔を思い浮かべた。
「民を数で見る者に、国は見えません」
その言葉は、玉座に座る冷酷な神の論理を、人間の血の通った声で完全に切り裂いた。
景煬帝の顔から、初めて無機質な仮面が剥がれ落ち、微かな動揺と疲労の色が浮かんだ。
六鎖は完成し、帝の罪は白日の下に晒された。
もはや、大梁国の歴史において、この公開審問の成立を覆せる者は誰もいなかった。




