第32話 殺せば、父は帰るのか
氷のように冷たく、ひどく滑らかな金属の感触が、柳青蘭の指先から全身へと這い上がってきた。
漆黒の毒杯。
それを一滴でも傾ければ、父に無実の罪を着せて殺した張徳海も、腐敗を統治の道具として許容した皇帝も、すべてこの世から消し去ることができる。
青蘭の背後に密着する精霊・烏露は、彼女の手首の『毒痕』を愛撫しながら、その耳元でひたすらに甘く、凄絶な死を囁き続けていた。
『そうだ。そのまま飲み干すか、あるいは私の名を呼び、奴らの死を願え。そうすれば、お前はもう二度と、人間の浅ましい嘘や裏切りに傷つくことはない。私が、お前を永遠の毒神の器として迎え入れてやろう』
毒杯の表面で、どろりとした黒い液体が揺れた。
そこに映るのは、疲弊し、憎しみに歪んだ自分自身の顔だった。
このまま烏露の手を取り、復讐の毒神になれば、どれほど楽だろうか。男の官吏を演じ続ける重圧からも、女であることを隠す恐怖からも、すべて解放される。
脳裏に、優しかった兄の笑顔が浮かんだ。「青蘭、お前は私が守るよ」と言ってくれた兄。その兄は、張徳海の放った刺客に切り刻まれ、冷たい土の下で眠っている。
父の顔が浮かぶ。民のために尽くした清廉な官吏でありながら、帳簿の上で泥棒に仕立て上げられ、無念のまま処刑台に消えた。
殺してやる。殺してやる。
青蘭の胸の中で、漆黒の殺意が最高潮に達し、指先が杯をしっかりと掴んだ。
烏露の喉の奥から、歓喜の震える吐息が漏れる。
だが。
杯を口元へと引き寄せようとした瞬間、青蘭の左手が、ふと自らの胸元――衣服の下に隠し持っていた、縁の焼け焦げた木片に触れた。
兄の、焼け残った官符。
暗殺者に襲われ、血の海に沈みながらも、兄が炎の中から遺そうとした真実の欠片。
「あ……」
青蘭の動きが、ピタリと止まった。
毒杯を持つ手が小刻みに震え始める。
『どうした、青蘭。何をためらう必要がある』
烏露が急かすように囁くが、青蘭の目から、ひとしずくの熱い涙がこぼれ落ちた。
涙は黒い毒液の表面に落ち、小さな波紋を広げた。
その波紋が、青蘭の心にこびりついていた漆黒の憎悪を、冷水のように洗い流していく。
「……烏露」
青蘭は、かすかに震える声で精霊の名を呼んだ。
「私がこの毒を使って、皇帝と張徳海を殺したとしよう。彼らは苦しみ抜いて死ぬだろう。だが……」
青蘭は、ゆっくりと烏露を振り返った。
その瞳に宿っていた暗い狂気は消え、代わりに、氷のように冷たく、透き通った理性の光が戻っていた。
「殺せば、父は帰るのですか」
『……なに?』
烏露の美しい顔から、微かに余裕が消える。
青蘭は、毒杯を握る手に力を込め、はっきりとした声で言葉を紡いだ。
「あの男たちを毒で消し去ったところで、父が帰ってくるわけではない。それどころか、父が横領犯であるという偽りの記録は、歴史の中に永遠に残ってしまう」
青蘭の言葉は、静かな離宮の部屋に、確かな重みを持って響いた。
「兄は罪人でなくなるのですか」
『……』
「民の米は、来年も届くのですか。皇帝が不審死を遂げても、また別の権力者が玉座に座り、同じように民から搾取を繰り返すだけだ。……毒による死は、何も解決しない。ただの現実逃避だ」
青蘭は、自らの手首に刻まれた毒痕を睨みつけた。
「私が本当に望んでいるのは、復讐としての死体ではない。父の無実を証明し、兄の無念を晴らし、この国の狂った仕組みそのものを『記録』として正すことだ」
パァンッ!!
青蘭は、振り上げた手で、黒い毒杯を石の床へと思い切り叩きつけた。
金属の杯は甲高い音を立てて砕け散り、黒い毒液が幻のように蒸発して消え去った。
『……正気か、柳青蘭』
烏露の声が、地を這うような低い響きに変わった。
彼は立ち上がり、冷徹な見下ろす視線で青蘭を射抜いた。
『私の差し出した究極の力を拒み、またあの紙切れの法にすがるというのか。お前はもう、御史台という後ろ盾すら失った、ただの逃亡者だぞ。六つの鎖など、絶対に揃うはずがない』
「揃えてみせます」
青蘭は、よろめきながらも立ち上がり、烏露を真っ直ぐに見返した。
「病弱な皇弟である景玄王殿下は、すでに第五の鎖……『皇族の連署』を集めるために動いてくださっています。血を分けた兄を玉座から降ろすという、彼自身の血を吐くような覚悟と共に」
青蘭の言葉通り、今この瞬間も、都の暗がりでは帝を裁くための巨大な歯車が動き始めていた。
景玄王は、帝のやり方に不満を持つ有力な皇族たちを極秘裏に訪ね、命懸けの説得を続けている。
大理寺の地下牢に拘束されている梁景明たち御史台の改革派は、過酷な尋問に耐えながら、決して青蘭の書いた告発状を「偽造だ」とは認めず、真実を守り抜いている。
そして、宗正寺の老官・段承礼は、第三の鎖である「祖法認定」を引き出すため、宦官の監視の目を掻いくぐり、古き法を重んじる長老たちとの接触を図っていた。
「誰もが、命を懸けて鎖を編み上げようとしている。ならば私も、私の戦いをするだけです」
青蘭は、机の上に広げられた陳情書の山を見つめた。
「第六の鎖。被害地三州以上の確たる物証。……張徳海が燃やせなかった地方の隠された帳簿と、民の証言を、私が集め直します」
『……愚かだな。人間どもがどれほど束になろうと、絶対の権力には勝てない。お前はいずれ、必ず絶望して私を呼ぶことになる』
「いいえ。私はもう、毒には頼らない」
青蘭は、自らの胸元で焼け残った官符を強く握りしめた。
そして、決意に満ちた声で、自らの最終的な覚悟を口にした。
「六鎖が揃い、大理寺の審問が開かれるその日……私は、柳青嵐という男の偽りを捨てます。この女官の衣も脱ぎ捨てる。……私は、柳青蘭という女の名で、あの朝廷に立つ」
その言葉は、烏露にとってすら予想外のものだったのか、精霊の目が微かに見開かれた。
女が官吏になれない国で、女の名で朝廷に立ち、皇帝を裁く。
それは、官職詐称の大罪を自ら告白し、自らの首を断頭台に差し出しながら戦うという、あまりにも壮絶な覚悟だった。
『……』
烏露は、しばし沈黙した後、喉の奥で低く、不気味な笑い声を漏らした。
完全な拒絶を受けたというのに、その笑いには、青蘭の狂気じみた気高さに対する、どうしようもないほどの惹きつけられるような執着が混じっていた。
『好きにしろ。だが忘れるな、柳青蘭。お前がどれほど光に向かって歩こうと、お前の手首に刻まれた私の毒痕は消えない。……お前の法が腐り落ちるその時まで、せいぜい楽しませてもらうぞ』
烏露の姿が、黒い霧となって部屋から完全に消え去った。
冷たい夜気が流れ込む離宮の一室で、青蘭は一人、静かに呼吸を整えた。
もう、迷いはない。
毒杯は捨てた。復讐の刃は、自らの朱筆と、人間の法という鎖に変えた。
手首の毒痕を袖でしっかりと覆い隠し、青蘭は陳情書の山に向かって再び筆を取った。
皇帝を玉座から引き摺り下ろすための、長く、そして最も過酷な最後の戦いが、今ここに幕を開けたのだ。




