第31話 毒杯の誘惑
深い夜の帳が下りた、後宮の古い離宮。
頼りない灯りが照らし出す卓の上には、柳青蘭の父が「横領犯」として処刑された公記録と、兄が「不審な襲撃」で命を落とした治安維持記録が並べられていた。
その二つの死の背後に、宦官の長・張徳海の冷酷な隠蔽工作があり、さらにその根源には、腐敗を統治の道具として許容する皇帝・景煬帝の狂った論理が存在している。
「……私の家族は、国を回すための、ただの『油』だったというのか」
青蘭は、女官の衣の膝の上で、血が滲むほど強く拳を握りしめた。
無実の罪を着せられ、ただ処刑されただけではない。父の死は皇帝の失政を隠すための帳尻合わせに使われ、兄の死は証拠を探るための罠として利用された。
彼らは人間として扱われていなかった。巨大な国家という歯車を回すために、帳簿の上で無造作に擦り潰され、使い捨てられたのだ。
「許せない……。張徳海も、その悪逆を玉座の上で黙認している皇帝も……!」
これまでは、どんな悪人を前にしても「法で裁く」という理性が辛うじて勝っていた。
だが、今回ばかりは違った。父の顔が、兄の優しい声が、青蘭の脳裏に蘇っては、どろどろとした漆黒の憎悪となって魂を黒く焦がしていく。
『――そうだ。その憎しみこそが、お前の最も美しい真実だ』
ふと、部屋の空気が凍りつき、むせ返るような甘く腐った死の香りで満たされた。
暗がりの中から、漆黒の衣を纏った精霊・烏露が、音もなく滑り出てくる。
彼は優雅な足取りで青蘭の背後に回り込むと、床に座り込む彼女の背中にぴったりと身を寄せ、その冷たい頬を青蘭の耳元へとすり寄せた。
『人間の作った法が、お前に何をもたらした? お前の父親は法を信じて殺され、お前の兄は真実を届けようとして暗殺された。お前自身も、命懸けで集めた証拠を燃やされ、御史台の仲間たちを理不尽に奪われたではないか』
烏露の氷のような指先が、青蘭の首筋から肩へと滑り、女官の衣の合わせ目から覗く肌を直接撫でる。
ぞくりと粟立つような冷たさと、それに相反する毒痕の激しい熱が、青蘭の理性をじわじわと溶かしていく。
『皇帝は、この国そのものだ。法という網の目を自在にすり抜け、自らの罪を正当化する絶対の権力。……そんなものを、遅鈍な紙切れの手続きで裁けるはずがない』
烏露は、虚空に細く長い手を伸ばした。
空間が歪み、闇の中から一つの器が現れる。
それは、以前見せた幻影ではなかった。実体のある、漆黒の金属で造られた重厚な杯。その中には、絶望のように黒く、そして恐ろしいほどに甘い香りを放つ毒液が、並々と注がれていた。
『見ろ、青蘭。これが、帝を殺せる毒だ』
烏露の囁きが、悪魔の祝詞のように鼓膜を震わせる。
『厳重な近衛兵の警護も、銀の匙による毒見も、私の毒の前では意味をなさない。これを一滴でもあの玉座に座る男の喉に落とせば、その肺はただちに溶け落ち、絶望の中で黒い血を吐いて死ぬだろう』
青蘭は、息を呑んでその『黒い毒杯』を見つめた。
六鎖の祖法。それを揃えるのは、気の遠くなるような苦難の道だ。景玄王が連署に動いているとはいえ、張徳海が掌握している宗正寺の認定や、大理寺の司法印を得る算段など全く立っていない。
もし途中で張徳海に先手を打たれれば、今度こそ完全に終わりだ。
だが、この毒杯ならば。
今すぐ、あの腐りきった皇帝の息の根を止め、すべての元凶を断ち切ることができる。
『私を選べ、青蘭』
烏露の声が、かつてないほど熱を帯び、危険な親密さを持って響いた。
彼は青蘭の背後から両腕を回し、その華奢な身体をすっぽりと漆黒の衣の中に包み込んだ。
『お前を、毒神の器にする。人間の愚かな法や、泥のような現実から完全に抜け出し……私の永遠の伴侶になれ』
「ばん、りょ……」
『そうだ。お前のその燃えるような怒りと憎しみを、すべて私に委ねるのだ。お前を傷つけ、お前の家族からすべてを奪ったこの国など……毒で沈めてしまえ』
甘い。
烏露の言葉は、傷つき、疲弊しきった青蘭の心にとって、あまりにも甘美で絶対的な救済だった。
皇帝を殺し、張徳海を殺す。この毒杯を受け取れば、煩わしい証拠集めも、正体がバレる恐怖に怯える夜も、すべて終わる。
法で裁く? なぜ、自分からすべてを奪った者たちに、正式な裁きの場などという生温いものを与えてやらなければならないのか。
「……この毒を使えば……」
青蘭の唇が、震えながら言葉を紡ぐ。
烏露がそっと差し出した黒い毒杯へ向けて、青蘭の右手が、まるで糸に引かれる操り人形のように、ゆっくりと持ち上がっていく。
袖口から露わになった手首の『毒痕』が、黒々と不気味に脈打ち、毒神との完全な融合を渇望するように痛いほどの熱を発していた。
『そうだ。受け取れ。それがお前の、本当の願いだ』
烏露の顔が、青蘭の首筋に深く埋められる。
死の香りが、青蘭の肺をいっぱいに満たした。
手先が杯の冷たい金属に触れそうになる。あと数寸。あとわずかに指を伸ばせば、彼女は人間の官吏であることをやめ、復讐の毒神へと成り果てる。
父の顔が浮かぶ。兄の顔が浮かぶ。
井戸に沈められた老人の、そして外戚に売り飛ばされた女官たちの絶望の涙が、青蘭の背中を押す。
殺していい。殺すべきだ。この国は、それほどまでに狂っているのだから。
「……あ……」
青蘭の指先が、黒い毒杯の縁に触れた。
ひやりとした死の感触が、指先から全身へと伝わっていく。
烏露の瞳が、歓喜に細められる。
静まり返った後宮の離宮で、青蘭はただ一人、自らの魂を漆黒の毒へ沈めるかどうかの、ぎりぎりの淵に立たされていた。




