第30話 兄の死
後宮の北端にある古い離宮。
景玄王が置いていった地方の陳情書や過去の記録の山に埋もれながら、柳青蘭は一通の古びた木簡を見つめていた。
父の冤罪が、帝の失政を隠すために張徳海によって仕組まれたものだと知った衝撃は、まだ青蘭の胸の中でどろどろとした黒い炎となって燻っている。
だが、青蘭の手元にあるもう一つの記録が、その炎をさらに激しく、そして決定的な憎悪へと変えようとしていた。
「……これは、兄上が亡くなった時の、地方の治安維持記録」
青蘭の指先が、冷たい木簡の表面をなぞる。
兄・柳青嵐。病弱で線が細く、青蘭と顔立ちがよく似ていた。彼は誰よりも正義感が強く、妹である青蘭をいつも優しく庇ってくれる人だった。
その兄は、科挙に見事合格し、希望を胸に都へ向かう途中で、不運にも盗賊に襲われて命を落とした――青蘭は、これまでずっとそう信じていた。
しかし、景玄王が密かに収集していた『不審死』の記録の中に紛れていた検死官の所見と現場の報告書は、単なる強盗事件のそれとは明らかに異なっていた。
「金目や路銀は奪われている。……ですが、それ以上に、荷物が異常なほど徹底的に引き裂かれ、衣服の裏地にいたるまで刃物で切り裂かれて調べられた痕跡がある」
青蘭は息を呑んだ。
ただの盗賊が、着物や書物をそこまで執拗に破壊するだろうか。彼らは明らかに、『特定の何か』を探していたのだ。
「父の、残した証拠……!」
震える声が、薄暗い部屋に響いた。
父が処刑される直前、兄は密かに面会を果たしていた。父は、帝の失政と張徳海の横流しを示す何らかの証拠を、兄に託していたのではないか。
だから兄は、病弱な身体に鞭打って科挙を受け、都の官吏となって、直接朝廷の重臣に父の無実を訴えようとした。
しかし、その動きは、すでに内侍省に察知されていたのだ。
「張徳海……。あの男が、証拠隠滅のために暗殺者を放ち、兄を……」
青蘭の視界が、怒りと悲しみで赤く明滅した。
それだけではない。
兄の死が張徳海の命令による計画的な暗殺であったのなら、これまでのすべての『不自然な符合』に、恐ろしい説明がついてしまう。
「なぜ、兄の死亡届は、朝廷で正式に処理されていなかったのか」
青蘭が、死んだ兄の名を騙り、女であることを隠して都の関所を越え、御史台に入り込めた理由。
それは、戸籍を誤魔化してくれた老吏の腕が良かったからでも、奇跡的な幸運に恵まれたからでもなかった。
張徳海が、兄の持っていたはずの「証拠」の行方を探るために、あえて死亡届を握り潰し、柳青嵐という存在を戸籍上で『生きている』状態に保留していたのだ。
証拠が見つからなかったからこそ、張徳海は柳家に関わる動きを監視するために網を張り続けていた。
「私が都に入れたのは……私が兄の官符を使えたのは……張徳海が、証拠の行方を追うために泳がせていたから……」
青蘭は、震える手で自らの胸元を探り、衣服の下に隠し持っていた硬い木片を引き出した。
縁が黒く焼け焦げた、兄の官符。
あの襲撃の夜、兄は暗殺者の刃に倒れながらも、最後の力を振り絞って証拠の品とこの官符を炎の中に隠したのだろうか。いつか、真実を暴く者が現れると信じて。
「ああ……っ」
呻き声が、喉の奥から絞り出された。
胸を縛る晒しがない女官の衣を着ているというのに、心臓が握り潰されるように痛い。息ができない。
父は無実の罪を着せられ、処刑された。
兄は、その真相を届けようとして惨殺された。
家族を、二度も。
あの薄気味悪い笑みを浮かべる宦官が、自らの権力と保身のためだけに、青蘭のすべてを理不尽に奪い去ったのだ。
「張徳海……ッ!!」
どろりとした、漆黒の憎悪が青蘭の胸の底から湧き上がり、全身の血を沸騰させた。
これまで「人間の法」を信じ、証拠を集めることで悪を裁こうとしてきた理性の堰が、轟音を立てて崩れ落ちそうになる。
法廷など生温い。記録で罪を暴くだけで、この激しい痛みが癒えるはずがない。
殺したい。
今すぐ、あの男の喉を裂き、絶望の中で血を吐かせて、この世から完全に消し去ってやりたい。個人的な復讐心が、かつてないほどの巨大な黒い炎となって青蘭の魂を包み込んでいく。
『――良い顔だ、柳青蘭』
不意に、離宮の冷たい空気が、さらに一段と凍りつき、甘く腐ったような死の香りで満たされた。
灯りが頼りなく揺らぐ中、青蘭の背後の暗がりから、漆黒の衣を纏う精霊・烏露が音もなく滑り出てきた。
彼は、かつてないほど近く、青蘭の背中に密着するようにして跪いた。
その顔は、狂気にも似た歓喜に歪んでいる。
『お前の中に渦巻く、純粋で濃密な殺意。……ああ、たまらなく甘い匂いだ』
烏露の氷のような指先が、青蘭の女官の衣の袖口から入り込み、その細い手首へと滑り込む。
黒い『毒痕』が、青蘭の憎悪に呼応してドクン、ドクンと激しく脈打ち、黒い血管のように腕を這い上がり始めていた。
『お前の父親は、人間の法を信じたからこそ殺された。お前の兄は、真実を届けようとして惨殺された。……見ろ。人間の法が、お前の家族に何をしてくれた?』
烏露の冷たい吐息が、青蘭の耳を舐めるように撫でる。
その言葉は、青蘭が必死に目を背けてきた最も痛い真実を、容赦なく抉り出していた。
『許すな。奪われたのなら、奪い返せ。お前のその燃えるような憎しみを、すべて私の毒に変えろ』
青蘭は、焼け残った官符を強く握りしめた。
指に爪が食い込み、血が滲む。痛みすらも、もはや心地よい。
「張、徳海……」
『そうだ。奴を殺せ。記録など、燃やしてしまえばいい。この腐った国を、お前の家族を奪った玉座ごと、すべて猛毒で沈めてしまえ』
烏露の顔が、青蘭の頬に触れるほどの距離に迫っていた。
その双眸は、闇よりも深く、青蘭の魂を丸ごと呑み込もうとしている。
『……私を、選べ』
精霊の囁きは、絶望の淵に立つ青蘭にとって、絶対的な救済のように響いた。
復讐の炎に焼かれる青蘭の心は、今まさに、法という光を捨て、底知れぬ毒の淵へと最後の一歩を踏み出そうとしていた。




