第29話 父の処刑
後宮の暗がり、古い離宮の一室。
景玄王が立ち去った後も、柳青蘭は机の上に広げられた地方の陳情書の山と向き合っていた。
女官の簡素な衣は軽く、身体の締め付けはない。だが、一枚の陳情書を読み進めるたびに、見えない重圧が青蘭の肩に重くのしかかっていくようだった。
「……また、横流しの記録ですか」
青蘭は、朱筆の先を一つの木簡に押し当て、低く呟いた。
それは、青蘭が御史台で最初に直面した『救済米横流し事件』と酷似した手口だった。地方の村へ送られるはずの物資が、帳簿上では「配布済み」とされながら、実際には姿を消している。
一つや二つの村ではない。景玄王が集めた記録を総合すると、大梁国の各地で同時多発的に、天文学的な量の米と物資が国庫から「合法的に」消え去っていた。
「蘇文達のような悪徳官吏が、偶然にも各地で同時に同じ手口を使った……? いいえ、あり得ない。これはもっと組織的な、国家ぐるみの……」
青蘭の朱筆を動かす手が、ピタリと止まった。
消えた物資の量と、その時期。
それは数年前、皇帝・景煬帝が、辺境での反乱鎮圧と大規模な宮殿造営のために、莫大な『臨時軍費』を必要としていた時期と完全に重なっていた。
「……皇帝の改革失敗による、軍費不足。それを補うために……」
青蘭は息を呑み、震える手で別の書類を引き寄せた。
それは、青蘭の父が処刑される原因となった、かつての『地方国庫横領事件』の公記録の写しだった。
地方の清廉な官吏であった父は、ある日突然、国庫から大量の米を横領した罪で捕らえられ、まともな審問も受けられないまま処刑された。
青蘭は、父の処刑記録と、景玄王の陳情書、そして横流しの時期を重ね合わせた。
点と点が、残酷な一本の線として繋がっていく。
「父は、横領などしていなかった……! 帝の失敗による軍費不足を隠すために、地方の米が根こそぎ『横流し』という形で都へ吸い上げられていたのだ。そして、その帳簿の矛盾に気づいた父は……!」
『……その通りだ、柳青蘭』
部屋の空気が、ふわりと冷たく淀んだ。
漆黒の衣を纏った烏露が、音もなく天井から舞い降り、青蘭の背後に立った。
『お前の父親は、真面目すぎたのだ。帳簿の数字が合わないことを上に報告し、真面目に捜査を始めようとした。だから、消された』
烏露の氷のような指先が、青蘭の首筋を撫でる。
『帝の失敗を隠蔽し、莫大な米を合法的に都へ吸い上げる。その巨大な集金機構を裏で取り仕切っていたのは、言うまでもなくあの宦官の長……張徳海だ』
青蘭は、激しい目眩を覚えながら、机の上の処刑記録を睨みつけた。
書類の末尾。そこには確かに、内侍省長官・張徳海の印が押されている。
「張徳海が……父を、横領犯に仕立て上げた……」
『そうだ。奴は、お前の父親が調べていた横流しの記録をすべて燃やし、代わりに「柳という官吏が私欲のために米を盗んだ」という偽の調書を作り上げた。人は死ねば黙る。張徳海は、お前の父親を処刑して口を封じ、すべての罪をその死体に背負わせたのだ』
烏露の言葉は、冷酷な真実として青蘭の胸を抉った。
蘇文達の時と同じだ。郭英の時と同じだ。
張徳海は、生きている人間の存在を消し、死んだ人間に罪を書き加える。そうやって、帝の悪政と自らの権力を守るためだけに、数え切れないほどの命を書類の上で擦り潰してきたのだ。
「父上……」
青蘭の目から、熱い涙がこぼれ落ちた。
ずっと、父は無実だと信じていた。だが、まさかその死が、皇帝の失政を隠すための単なる「帳尻合わせ」の道具に過ぎなかったとは。
『どうだ、青蘭。これが、お前が信じていた国だ。法を司る皇帝が自ら泥棒を働き、宦官がその罪を隠すために無実の人間を殺す』
烏露は、青蘭の耳元で甘く、蠱惑的に囁いた。
『こんな国に、守る価値などあるか? お前の父親は、法を信じたから殺されたのだ。お前もこのまま紙切れにしがみつけば、同じ末路を辿るぞ』
烏露の指先が、青蘭の手首に刻まれた黒い『毒痕』を愛撫するように撫でた。
『私に命じろ。今すぐ張徳海の喉を焼き切り、あの偽りの玉座に座る皇帝の肺を腐らせてやろう。お前の怒りと悲しみを、私の毒がすべて晴らしてやる。さあ、私の毒を呼べ』
誘惑は、絶望の深さに比例して、どこまでも甘く強烈だった。
張徳海を殺せば、父の無念は晴らせるかもしれない。皇帝を毒殺すれば、この狂った仕組みは終わるかもしれない。
「……」
青蘭は、涙で滲む視界の先で、父の処刑記録をじっと見つめた。
偽りの罪状。無念の死。
だが、青蘭は朱筆を握る手を震わせながらも、烏露の冷たい手を自らの肩からゆっくりと退けた。
「……いいえ」
涙を拭い、青蘭は低く、しかし決して折れない声で言った。
「毒で彼らを殺しても……父上が『横領犯』であるという記録は、歴史に残ったままです」
『……なに?』
烏露の目が、わずかに細められる。
「私が欲しいのは、復讐としての死体ではない。父の無実の証明です。皇帝が自らの失敗を隠し、張徳海が文書を改竄して無実の人間を殺した。その『事実』を、正式な法廷の場で白日の下に晒し、記録として残さなければ……父の魂は、永遠に罪人として暗い井戸の底に沈んだままになる」
青蘭は、景玄王が置いていった陳情書の山を両手で強く抱きしめた。
「私は、逃げません。どれほど法が腐っていようと、その法を用いて彼らを裁く。……張徳海が殺した現実を、私がもう一度、この記録の鎖で蘇らせてみせます」
『……フン。相変わらず、可愛げのない強情な女だ』
烏露は、退屈そうに鼻を鳴らすと、闇の中へと姿を消した。
だが、その去り際の気配には、微かな歓喜の色が混じっていた。
青蘭は一人、静寂の戻った離宮で、父の記録と向き合った。
父の死の真相は分かった。だが、まだ一つの謎が残っている。
では、都へ向かっていた兄・柳青嵐は、なぜ不審な襲撃を受けて命を落とさなければならなかったのか。ただの強盗だったのか、それとも……。
青蘭の胸の中で、最後の真実への扉が、重い音を立てて開こうとしていた。




