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第28話 病弱な皇弟

後宮の北端、忘れ去られたように建つ古い離宮。

深い夜の闇に沈むその一室で、柳青蘭は一握りの灯りを頼りに、下級女官たちから集めた証言を書き起こしていた。

身に纏っているのは、男の官吏としての重い官衣ではなく、飾りのない簡素な女官の衣である。胸を縛る晒しを解いた身体は軽く、呼吸は深く落ち着いていたが、御史台という表舞台から完全に存在を消された焦燥感が、常に胸の奥底で燻っていた。


ギィ、と微かな音を立てて、部屋の襖が開いた。

現れたのは、青蘭をこの離宮に匿ってくれた高位女官、白玉蓮(はく・ぎょくれん)だった。そして彼女の背後には、闇に紛れるようにして、目立たない黒衣を羽織った一人の青年が立っていた。


「……白大人。その後ろの方は?」


青蘭が警戒して身を固くすると、白玉蓮は静かに首を振った。


「案ずることはありません。あなたに、どうしても引き合わせたい方がいたのです」


黒衣の青年が、白玉蓮に促されて前へ出た。

その顔は、幽鬼のように青白かった。頬は痩せこけ、時折、堪えきれないような乾いた咳を漏らしている。杖をつき、誰かの支えがなければ立っているのも辛そうなほど病弱な姿だったが、その双眸だけは、暗がりの中でも異様なほどの鋭い光を放っていた。


「夜分にすまない。あなたが、私にあの『後宮女官売買事件』の告発状の写しを送ってくれた、御史台の柳青嵐……いや、今は柳青蘭殿と呼ぶべきか」

「私の正体を……!」


青蘭が息を呑むと、青年は苦笑して自らの名乗った。


「白大人から事情は聞いている。張徳海の目から逃れるため、女の衣で潜伏していることもな。……私の名は、景玄(けいげん)。現皇帝の、愚かで病弱な弟だ」


景玄王。

青蘭は、弾かれたようにその場に平伏しようとした。皇帝の異母弟であり、政治の表舞台には一切立たない無害な皇族。かつて青蘭が、わずかな希望を託して告発状の写しを送りつけた相手である。

景玄王はそれを手で制し、自らも冷たい板の間に崩れるようにして座り込んだ。


「礼は無用だ。私は、皇族として敬われるような立派な人間ではない。……これを見てくれ」


景玄王は、懐から一つの分厚い包みを取り出し、青蘭の前に差し出した。

青蘭が恐る恐るその包みを開くと、中から大量の紙片や布切れ、木簡がこぼれ落ちた。どれも泥や血に汚れ、乱れた文字がびっしりと書き込まれている。


「これは……地方からの、陳情書ですか」

「ああ。張徳海や悪徳官吏たちによって握り潰され、決して都の中枢には届かない被害の記録だ」


景玄王は、自嘲するように目を伏せた。


「私は長年、病弱で無害な皇弟を演じてきた。兄である皇帝の治世が、腐敗という名の毒に浸かっていると知りながら……自分の命が惜しくて、ただひたすらに沈黙し、目を逸らしてきた。だが、行き場を失った民の悲鳴だけは、なぜか私の府に集まってきたのだ」


青蘭は、その陳情書の山を震える手で捲った。

不当な重税、土地の強奪、水害の放置、役人による暴力。一つ一つの文字が、権力に踏み躙られた民の生々しい血と涙で書かれている。


「兄上は、愚かではない。むしろ、冷酷なまでに合理的だ。軍事費を賄い、帝位を盤石にするために、官吏の腐敗を『統治の道具』として利用している」


景玄王の言葉は、青蘭が特秘文書庫で偽の勅命の真相に気づいた時の絶望と、完全に一致していた。


「民は死んでもまた増える。だが国が割れれば元も子もない。それが兄上の論理だ。……私は、その狂った論理を否定したかった。だが、私にはこの記録を法廷に突きつける勇気も、力もなかった。長く沈黙し、民を見殺しにしてきた……私は、共犯者だ」

「景玄王殿下……」

「だが、あなたが私の府に送ってきたあの告発状を見て、私の目は覚めたのだ」


景玄王が、不意に顔を上げ、青蘭を真っ直ぐに見据えた。

その目には、長年の罪悪感と決別する、冷徹な覚悟の火が燃えていた。


「一介の若き官吏が、たった一人で巨大な外戚の罪を暴き、証拠の鎖を編み上げた。あなたが命懸けで編み上げたその鎖を前にして……私は、これ以上逃げることはできないと悟った」


景玄王は、激しく咳き込みながらも、血の滲むような声で言い放った。


「柳青蘭殿。私は、兄をあの玉座から引き摺り下ろす。この腐りきった国を終わらせ、私が玉座を継ぐ。そのための『証拠』を、私に集めさせてはくれないか」


その言葉は、単なる皇位簒奪の野心ではない。

国を救うために自らが泥を被るという、悲壮なまでの決意表明だった。

青蘭は、自らの手首に隠された毒痕をぎゅっと握りしめ、深く頷いた。


「皇帝を裁くには、古の『六鎖(ろくさ)の祖法』を行使するしかありません。その第五の鎖……『皇族三名以上の連署』が必要です」

「承知している。私が筆頭となり、兄のやり方に不満を持つ叔父や従兄弟たちを説き伏せよう。張徳海の目を盗み、必ず三名以上の連署を完成させてみせる」


景玄王は、力強く断言した。


「そして、第六の鎖である『被害地三州以上の確たる物証』。それは、私が集め続けたこの陳情書を糸口にできるはずだ。……柳青蘭。あなたには、この地方の被害記録を元に、帝の腐敗統治を立証する完璧な調書を完成させてほしい」

「……お任せください」


青蘭は、景玄王が持ち込んだ陳情書の山を、両手でしっかりと抱き寄せた。

御史台の仲間は捕らえられ、男の官吏としての立場は失われた。だが、女の姿で潜伏するこの暗闇の中で、帝を裁くための最も強力な『矛』が手に入ったのだ。


「沈黙は、時に共犯となります。ですが……今ここで立ち上がり、共に法廷を目指してくださるのなら、殿下は間違いなく、この国を救う真の王です」


青蘭の言葉に、景玄王はわずかに目元を和らげ、深く頭を下げて夜の闇へと帰っていった。


部屋に再び静寂が戻る。

青蘭は、陳情書を机の上に広げ、朱筆を手にした。

皇族の連署という絶望的な鎖に、確かな希望の光が差した。張徳海がどれほど記録を燃やし、現実を書き換えようとも、この『声』だけは絶対に消させない。


『――死に損ないの皇族と、居場所を失った罪人の女が手を組んで、帝を裁くか。最高の喜劇だな』


ふと、部屋の隅の暗がりから、甘く腐ったような死の香りが漂ってきた。

漆黒の衣を纏った精霊・烏露が、音もなく天井の梁から舞い降り、青蘭の背後に滑り込む。


『人間の小賢しい企みなど、権力の暴力の前ではいとも容易く捻り潰される。……お前が法という紙切れにすがる足掻き、最後まで特等席で見せてもらうぞ』


烏露は皮肉な笑みを浮かべ、青蘭の肩に冷たい指先を這わせた。

だが、青蘭は振り返ることなく、朱筆にたっぷりと朱砂を含ませた。


「黙って見ていなさい。私たちが編み上げる証拠の鎖が、いかにして絶対の権力を縛り上げるかを」


手首の毒痕が、微かに熱を帯びる。

だが、今の青蘭の心にあるのは、毒による私刑への誘惑ではなく、法廷で玉座を撃ち抜くための、冷徹で静かな怒りだった。

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