第27話 女官の衣
深い夜の闇が、後宮をすっぽりと包み込んでいた。
御史台から這うようにして逃げ出した柳青蘭は、雨に濡れた犬のように泥だらけの姿で、後宮の北端にある古い離宮へと転がり込んでいた。
そこは、かつて白玉蓮の手引きで小翠と密会した場所だ。
青蘭は、息を殺して冷たい板の間に座り込み、自らの体をきつく抱きしめた。
震えが止まらない。
梁景明たち仲間が、自分の書いた調書のために大理寺へ連行されてしまった。張徳海の手によって証拠は燃やされ、自分は御史台での居場所を完全に失った。柳青嵐という男の官吏は、もはや記録の上でも、現実の世界でも、身動きが取れない死人同然だった。
「……ここでお待ちください」
微かな衣擦れの音がして、白玉蓮が姿を現した。
彼女は青蘭の泥だらけの官衣を見ると、静かに目を伏せ、用意していた衣の束を差し出した。
それは、後宮の下級女官が着る、飾りのない簡素な衣だった。
「その『男の官衣』を着ている限り、あなたは張徳海の放った追手に必ず見つかります。今夜から、あなたはこの後宮の奥深くで、一人の名もなき女官として身を隠しなさい」
白玉蓮の言葉に、青蘭は震える手でその衣を受け取った。
重く、息苦しかった男の官衣を脱ぎ捨てる。胸をきつく縛り上げていた晒しを解くと、肋骨を覆っていた鈍い痛みがふっと和らぎ、冷たい夜気が直接肌に触れた。
手首に刻まれた黒い『毒痕』だけが、闇の中で不気味に沈黙している。
女官の衣に袖を通す。
数年ぶりに身に纏う女の衣は、ひどく軽く、そして恐ろしいほどに無力に感じられた。
男の官衣を着ていれば、剣がなくても朱筆と証拠で戦うことができた。だが、この柔らかな布切れ一枚になった瞬間、自分がこの国でいかに羽毛よりも軽い存在であるかを、魂の底から思い知らされるようだった。
「お役人、様……?」
ふと、部屋の隅からおずおずとした声がした。
小翠をはじめとする、数名の下級女官たちだった。彼女たちは、かつて自分たちを救ってくれた「男の官吏」が、自分たちと同じ衣を着た「一人の女」としてそこにいることに、驚きと戸惑いの目を向けている。
「……私の本当の名は、柳青蘭です」
青蘭は、喉の奥で作っていた低い声を捨て、本来の自分の声で語りかけた。
「張徳海の罠に嵌められ、仲間を奪われました。証拠も燃やされました。私はもう、男の名で法廷に立つことはできません」
「そんな……!」
「ですが、諦めるわけにはいかないのです」
青蘭は、小翠たちの前に膝をつき、その小さな手を両手で包み込んだ。
男の歩幅ではなく、女としての目線で、彼女たちの痛みに真っ直ぐに向き合う。
「燃やされた証拠は、もう一度集めます。私の名が消されたなら、今度は私の肉声と、あなたたちの声で、あの悪党どもの罪を法廷に叩きつける。……どうか、もう一度だけ、私にあなたたちの『声』を預けてはくれませんか」
「青蘭、様……」
小翠の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
男官の姿で尋問した時には、恐怖で強張っていた彼女たちの表情が、同じ女の弱さと覚悟に触れて、次第に柔らかく解けていく。
「……お話しします。わたくしたちが外戚の屋敷で何を見たか、何をされたか。……あの時、あなたがわたくしたちを信じて救ってくれたように、今度はわたくしたちが、あなたを信じます」
小翠だけでなく、周囲の女官たちも次々と頷き、青蘭の周りに集まってきた。
彼女たちの口から紡がれるのは、帳簿には決して載らない、生々しい痛みと絶望の記憶だった。誰がどこへ連れて行かれ、どれほどの対価で取引されたのか。夜な夜な行われていた密談の断片。
それは、法廷において『女の証言は軽い』と一蹴されるかもしれない、危うい肉声の集まりだ。だが、今の青蘭にとっては、どんな完璧な調書よりも重く、決して燃やされることのない真実の鎖だった。
白玉蓮は、部屋の入り口で腕を組み、静かにその光景を見つめていた。
「男の名がなければ官吏になれない。けれど、男の姿では聞けない声がある。……あなたはついに、一番厄介で、一番強い武器を手に入れたようですね、柳青蘭」
白玉蓮の言葉に、青蘭は顔を上げ、小さく頷いた。
そうだ。男の官吏・柳青嵐は死んだ。だが、女・柳青蘭の戦いはここから始まるのだ。
『――随分と、涙ぐましい友情ごっこだな』
ふと、部屋の空気が甘く腐ったような死の香りに塗り替えられた。
女官たちの目には見えない暗がりの中から、漆黒の衣を纏う精霊・烏露が、音もなく滑り出てくる。
彼は優雅な動作で青蘭の背後に座り込み、その柔らかな女官の衣の襟元から覗く白い首筋に、氷のような指先を這わせた。
『お前の集めた証拠は燃やされ、仲間は牢に入れられた。結局、人間の法などその程度のものだ。……なのにお前は、まだそんな女たちの震える声などにすがるのか?』
烏露の吐息が、耳元を甘く撫でる。
手首の『毒痕』が、久しぶりに女の衣を纏った青蘭の不安に呼応するように、微かに熱を帯びた。
『私に命じろ、青蘭。今夜にでも張徳海の喉を焼き切り、お前の仲間を牢から出してやろう。お前がその惨めな女の衣を脱ぎ捨てて、私だけのものになるのなら……私が、この国ごと沈めてやる』
烏露の誘惑は、絶望の淵にいる青蘭にとって、あまりにも甘く、手っ取り早い解決策だった。
張徳海を殺せば、すべてが終わる。
「……断ります」
だが、青蘭は女の本来の声で、はっきりとその誘惑を跳ね除けた。
「張徳海を殺しても、彼が作り上げた『偽りの現実』は帳簿の上に残ったままです。それに、私一人が血を被って逃げれば、この後宮で声を上げてくれた彼女たちの勇気はどうなるのです」
青蘭は、自らの手首の毒痕を、女官の長い袖でしっかりと覆い隠した。
「私は逃げません。燃やされた証拠の代わりに、彼女たちの肉声を繋ぎ合わせ……必ず、張徳海を法廷に引き摺り下ろす。それが、私の裁きです」
『……フン。相変わらず、強情でつまらん女だ』
烏露は、心底退屈そうに鼻を鳴らすと、影の中へと溶けていった。
だが、その去り際の気配には、微かな苛立ちと……青蘭の決して折れない意志に対する、歪んだ執着の色が濃く滲んでいた。
青蘭は、薄暗い離宮の中で、女官たちと共に夜明けを待った。
六鎖の祖法。その第五の鎖である『皇族の連署』の希望は、あの病弱な皇弟・景玄王に託されている。彼が動くかどうかに、大梁国の未来と、青蘭たちの命がかかっていた。




