第26話 御史台粛清
張徳海による「柳青嵐」の身元調査が始まってから、御史台の空気は急激に冷え込んでいた。
青蘭は、自らの執務机で山のような書類と格闘しながら、ひたひたと足元に迫る死の気配を感じていた。
江南の不正を暴いた『御史台の正式告発状』は、確かに巨悪を一部打ち砕いた。しかし、その代償として、張徳海という最大の怪物の視線を、御史台という組織そのものに引き寄せてしまったのだ。
「……青嵐。少し、顔色が悪いぞ」
梁景明が、青蘭の机に新たな書類の束を置きながら低く囁いた。
「内侍省の動きが不気味だ。ここ数日、我々が作成した過去の調書の写しを、片端から持って行っている。それも、お前と俺が関わった案件ばかりをな」
「……」
「張徳海は、俺たちの告発状の揚げ足をとり、逆に俺たちを『偽証罪』で陥れる腹積もりだろう。……お前、自分の過去に何か、突かれるような埃はないか?」
梁景明の鋭い視線に、青蘭は心臓が凍りつくような思いがした。
埃どころではない。自分の存在そのものが、巨大な嘘でできている。
胸を縛る晒しの窮屈さと、手首に刻まれた毒痕の微かな熱が、その罪の重さを常に青蘭に突きつけていた。もし自分の「女」という正体がバレれば、自分だけでなく、連署してくれた梁景明たちまで巻き添えにして処刑されることになる。
「……ありません。私の調書は、すべて事実に基づいています」
青蘭は、震えそうになる声を喉の奥で押し殺し、真っ直ぐに梁景明の目を見返した。
梁景明は、短く息を吐いた。
「ならいい。俺たちはお前の調書を信じて印を押したんだ。どんな揺さぶりにも屈するなよ」
その言葉が、かえって青蘭の胸を締め付けた。
その日の午後。
事態は最悪の形で動き出した。
「御史台の全官吏に告ぐ!! 手を止めよ!」
重い扉が乱暴に開け放たれ、甲冑を鳴らして雪崩れ込んできたのは、内侍省直属の近衛兵たちだった。
先頭に立つのは、張徳海の腹心である冷酷な目つきの宦官だ。彼は、冷ややかな視線で執務室を見回し、高らかに宣言した。
「江南の鄭介弾劾に関する『御史台の正式告発状』に、重大な偽証の疑いがある。連署した者たちは、直ちに大理寺の審問を受けるものとする!」
「なっ……! 偽証だと!?」
梁景明が激昂して立ち上がった。
「あの告発状の証拠はすべて裏が取れている! 帳簿の記録も、証言も、何一つ捏造などしていない!」
「それは審問で明らかになろう。……だが、その前に」
宦官は、薄気味悪い笑みを浮かべ、青蘭の机の上に一枚の文書を叩きつけた。
それは、江南の豪族たちが『自白』したとされる、真新しい調書の写しだった。
「江南の豪族たちは、こう証言している。『我々は柳青嵐という官吏から、鄭介殿に罪を被せるよう脅された。証拠の帳簿も、彼が偽造したものだ』とな」
「馬鹿な……!」
青蘭は息を呑んだ。
張徳海は、捕らえられた豪族たちに司法取引(あるいは拷問)を持ちかけ、青蘭を主犯とする『新しい現実』を文書として作り上げたのだ。
「さらに、お前たちの作成した証拠書類は、現在内侍省で預かっているが……」
宦官は、まるで世間話でもするように残酷な事実を口にした。
「残念なことに、昨夜、保管庫で小さな火災がありましてな。江南事件の物証や証言記録の一部が、燃えてしまったのです」
「貴様ッ!!」
梁景明が腰の剣に手をかけようとした瞬間、近衛兵たちが一斉に槍を突きつけた。
「無駄な抵抗はおやめなさい、梁大人。証拠が燃え、証人が口を翻した以上、あなた方の告発状はただの『紙屑』です。……さあ、連行しろ!」
兵たちが、梁景明や連署した官吏たちを次々と拘束していく。
彼らは皆、口々に無実を叫びながら、暗い廊下の向こうへと引き立てられていった。
「……なぜ、私を捕らえないのです」
執務室に一人残された青蘭は、自らの震える手を握りしめ、宦官を睨みつけた。
主犯とされた自分が真っ先に捕まるはずだ。
「張大人からのご伝言です」
宦官は、青蘭の耳元に顔を寄せ、毒蛇のように囁いた。
「『柳青嵐。お前の正体は分かっている。だが、お前を単なる詐称者として処刑するだけでは面白くない。お前が信じた証拠をすべて燃やし、お前が巻き込んだ仲間たちが絶望の中で死んでいく様を見物させてやろう』……と」
宦官は、青蘭の首筋に冷ややかな視線を這わせた後、高笑いと共に部屋を出て行った。
静寂が戻った執務室で、青蘭はただ一人、床に崩れ落ちた。
仲間たちが連れ去られ、必死に集めた証拠は燃やされた。自分は『存在しない者』として生かされ、ただ絶望を味わわされている。
『――だから言っただろう? 人間の法など、権力の前ではただの紙屑だと』
ふと、部屋の空気が甘く腐ったような匂いに変わった。
暗がりの中から、漆黒の衣を纏った烏露が音もなく現れる。彼は床に座り込む青蘭の前に跪き、その青ざめた頬を冷たい指先でそっと包み込んだ。
『張徳海は、お前の仲間を殺し、お前の記録を消し去るつもりだ。……お前がいくら証拠を集めても、あいつが燃やせばそれで終わりだぞ』
烏露の吐息が、青蘭の耳元を撫でる。
『さあ、私に命じろ、青蘭。今すぐあの宦官どもの肺を溶かし、張徳海の臓腑を腐らせてやろう。そうすれば、お前の仲間は助かる。……私の毒だけが、お前を救えるのだ』
絶望の淵で差し出された、唯一の救済の刃。
青蘭は、手首の毒痕がズキリと熱を帯びるのを感じながら、ゆっくりと目を閉じた。
仲間を救うためには、もう毒に頼るしかないのか。
「……いいえ」
だが、青蘭は目を開き、烏露の冷たい指を自らの手で振り払った。
「私がここで毒を使えば、張徳海が作った『我々が偽証した』という嘘の記録が、本当の真実として歴史に残ってしまう」
『仲間が見殺しになってもいいと言うのか!』
烏露の声に、初めて苛立ちが混じった。
「見殺しにはしない。……燃やされたなら、もう一度集める。彼らが何度現実を書き換えようと、私は絶対に、法と証拠で彼らを取り戻す」
青蘭は、よろめきながら立ち上がり、机の上に残された朱筆を強く握りしめた。
正面から戦う手段は奪われた。ならば、男の官衣を脱ぎ捨ててでも、新たな証言を拾い集めるしかない。
青蘭の視線は、後宮の奥深く――白玉蓮のいる方向へと向けられていた。




