第25話 死んだ兄の名
大梁国の中枢、内侍省。
その最深部にある長官室は、外の光をすべて遮断したかのように薄暗く、重苦しい沈香の匂いが立ち込めていた。
紫檀の机に向かう張徳海は、美しく手入れされた指先で、一枚の古い戸籍謄本をなぞっていた。
「柳、青嵐……。江南の寒村出身。病弱だが筆が立ち、先の科挙では見事な成績を修めている」
張徳海の口元に、氷のように冷たい笑みが浮かぶ。
彼の目の前には、戸籍謄本だけでなく、青蘭が御史台で書き上げた数々の調書、そして先日、部下の宦官が湯殿で目撃したという『不自然な身体つき』と『黒い痣』に関する報告書が並べられていた。
「あの若造が御史台に現れてから、ことごとく私の張った網が破られている。後宮の女官売買も、江南の特別徴税も……すべて、あいつが書いた調書によってだ」
張徳海は、朱筆を手に取り、戸籍に記された『柳青嵐』の名を赤く塗り潰した。
「人は嘘をつくが、文書は嘘をつかない。私が管理する記録の海で、完全に身を隠し通せる者などいないのだよ」
張徳海は、控えていた腹心の宦官に視線を向けた。
「調べはついているな?」
「はっ。柳青嵐の故郷に忍ばせた者の報告によりますと……本物の柳青嵐には、容姿が酷似した『青蘭』という妹がおりました。しかし、彼女の存在は戸籍上から完全に抹消されており、現在は行方不明となっています」
「なるほど。妹、か」
張徳海は、喉の奥で低く笑った。
「腑に落ちた。あの骨格の細さ、声の不自然さ、そして何より……湯殿での身体検査を頑なに拒んだ理由。あの生意気な監察官の正体は、死んだ兄の名を騙る『女』だ」
官職詐称。しかも女が朝廷に入り込んでいたとなれば、それだけで死罪は免れない。
だが、張徳海はすぐに青蘭を捕縛するような真似はしなかった。
「本物の柳青嵐は、都へ向かう途中で何者かに襲われ、命を落とした……と、書類上は処理せずに『保留』としていたな」
張徳海は、別の棚から一巻の木簡を引き出した。
それは、本物の柳青嵐が殺害された際、地方の役人から上がってきた内密の死亡報告書だった。
「本物の柳青嵐の死亡届は、あえて処理せず保留にしていた。あの男が何かを運んでいた気配はあった。だが、肝心の品は見つからなかった。だからこそ、柳家の名が再び都に現れるのを、私は待っていたのだ。だが、肝心の証拠が見つからず、念のために死亡届を握り潰していたのが……まさか、こんな形で役に立つとはな」
張徳海は、冷酷な笑みを深めた。
もしこの事実を突きつければ、あの女は絶望の底に突き落とされるだろう。自分が信じていた兄の死が、偶然の強盗などではなく、最初から張徳海の掌の上で仕組まれた暗殺だったと知れば。
「女の正体を暴き、官職詐称で処刑するのは簡単だ。だが、それだけでは面白くない。……あの生意気な女の書いた調書をすべて『存在しない者が書いた幻』として無効化し、私の記録の正しさを完全に証明してやる」
張徳海は、朱筆で新たな文書を書き始めた。
『柳青嵐』を、この世から完全に消し去るための、緻密で完璧な死の記録を。
*
同じ頃、御史台の執務室。
青蘭は、激しい悪寒に襲われ、朱筆を握る手を止めていた。
背筋を這い上がるような、得体の知れない死の気配。それは烏露の放つ甘い毒の香りとは違う、もっと冷徹で、無機質な暴力の予感だった。
『……ひどく怯えた顔をしているな、青蘭』
不意に、部屋の片隅の影が揺らぎ、漆黒の衣を纏った烏露が姿を現した。
彼は優雅な足取りで青蘭の背後に回り込み、その冷たい頬を青蘭の耳元へとすり寄せる。
『お前の匂いが変わった。先日のような美しい怒りではない。これは……追い詰められた小動物の、絶望の匂いだ』
「……お前には関係ありません」
『あるとも。お前を完全に追い詰めるのは、私でありたいからな』
烏露は、青蘭の手首の『毒痕』を、官衣の上からそっとなぞった。
『お前が戦おうとしている宦官の長。あいつは今、お前の過去を完全に解体し、お前という存在そのものを紙の上から消し去ろうとしているぞ。……人間の記録などという脆い盾で、いつまで身を守れると思っている?』
烏露の囁きは、青蘭の最も恐れている現実を的確に突いていた。
湯殿での一件以降、内侍省の監視は異常なほどに厳しくなっている。歩幅、声、少しでも隙を見せれば、即座に捕縛されるという極限の緊張感が、青蘭の神経を削り続けていた。
何より恐ろしいのは、張徳海が『柳青嵐』の戸籍に辿り着くことだ。
「……私の、正体が……」
青蘭の唇が、かすかに震える。
『そうだ。お前が女であると証明されれば、お前の書いた告発状はすべて紙屑になる。お前が命懸けで救った証人たちの声も、再び闇に沈む』
烏露は、青蘭の耳元で甘く、残酷に囁いた。
『どうする? 私の毒なら、張徳海が新たな嘘を書き上げる前に、奴の両腕を腐らせ、その目を潰してやれる。……記録の神を殺せるのは、私の毒だけだ』
その誘惑は、これまでで最も強く青蘭の心を揺さぶった。
張徳海を殺せば、自分の秘密は守られる。これまでに救った命も、繋いだ法の手続きも、すべて無事に進むだろう。
だが。
「……断ります」
青蘭は、ぎゅっと目を閉じ、自らの胸元にある『焼け残った官符』の硬い感触を確かめた。
死んだ兄の遺品。自分が罪を背負って生きている証。
「張徳海を殺せば、私が兄の名を盗んだという事実は、誰の裁きも受けないまま永遠に隠蔽されてしまう。……私は、そんな卑怯な生き方を選ぶために、この官衣を着たわけではない」
青蘭は、ゆっくりと目を開け、烏露を真っ直ぐに睨み返した。
「私が裁かれるべき時が来たら、法廷で堂々と罪を認める。だが、それは張徳海の作った『偽りの文書』によってではない。……私自身の言葉で、帝の御前で真実を語る時だ」
『……フン。相変わらず、強情で可愛げのない女だ』
烏露は、つまらなそうに鼻を鳴らすと、影の中へと姿を消した。
だが、その去り際の気配には、微かな歓喜の色が混じっていた。
青蘭は、朱筆を強く握り直した。
張徳海の包囲網は、もうそこまで迫っている。彼が青蘭の過去を解体し尽くす前に、六鎖の祖法を完成させ、玉座を引き摺り下ろさなければならない。
記録で現実を殺す男との、命を懸けた真の奪い合いが始まっていた。




