第23話 偽ではなかった勅命
廃村の冷たい井戸の底から生還した帳簿係の証言は、御史台の暗がりに新たな、そしてひどく危険な道筋を引き入れた。
彼が震える唇で語ったのは、江南の豪族たちが強気の搾取を行えた絶対的な理由だった。
『豪族たちは、都からの公文書を握っていました。国家の緊急事に際し、地方の富を手段を問わず集めよという……皇帝陛下の名が記された、勅命です』
勅命。
その言葉は、柳青蘭の耳の奥で、かつて上官が吐き捨てた冷たい声と重なって響いた。第救済米事件の折、証拠の調書を突き返された時に上官が口にしたのもまた、「勅命だ」という絶対の拒絶だった。
深夜。御史台のさらに奥深く、厳重な鍵がかけられた特秘文書庫。
青蘭は、帳簿係の証言を頼りに、薄暗い書庫の棚から一つの文書の写しを引き摺り出していた。
それは、江南の豪族たちへ向けて密かに下されたとされる『勅旨』の控えであった。
「……ありました。これです」
卓上の頼りない灯りの下で、青蘭は息を詰めてその文書を開いた。
胸をきつく縛る晒しが、緊張で浅くなった呼吸をさらに圧迫する。官衣の長い袖から細い手首が覗かないよう、無意識のうちに布の端を固く握りしめた。
そこに記されていたのは、確かに江南からの特別徴税を許可する文言だった。
しかし、その内容はあまりにも異様だった。通常の税の徴収を命じる公的な言葉の裏に、『多少の便宜と手段の逸脱は不問とする。富を都へ還流させることのみを至上とせよ』という、事実上の略奪許可とも取れる一文が紛れ込んでいたのだ。
「張徳海の仕業ですね」
青蘭は、兄の遺品である朱筆を置き、文書を鋭く睨みつけた。
宦官の長であり、内侍省を牛耳る張徳海。彼ならば、皇帝の印璽を盗み出し、あるいは管理の目を盗んで、自らの息のかかった豪族たちに都合の良い『偽の勅命』を作り出すことなど造作もないはずだ。
地方の腐敗を助長し、その見返りとして莫大な賄賂を都へ吸い上げる。その巨大な集金機構の頂点に、張徳海がいる。
そう結論づけるのが、最も自然だった。
張徳海という権力者を法廷に引き摺り出し、この偽造文書の罪を暴けば、すべての悪は裁かれる。
青蘭は、文書の末尾に押された皇帝の証である玉璽の印影に目を落とした。偽造の痕跡を見つけ出すためだ。異常な記憶力と審美眼が、印泥の滲み、文字の払い、紙の繊維の質を、過去に見た本物の勅命と脳内で照合していく。
「……え?」
青蘭の視線が、ふと凍りついた。
指先が微かに震え始める。
「朱砂の配合……金粉の散らばり方。印の欠け、それに……この墨の筆跡」
何度見直しても、偽造の痕跡が見当たらない。
張徳海がどれほど文書操作の天才であろうと、皇帝直筆の筆の運びと、厳重に管理された玉璽の癖を、ここまで完璧に模倣することは不可能だ。
それに、この文書が発布された日付。それは、帝が重臣たちを集めて大規模な軍事費の調達について密命を下したとされる日と、完全に一致している。
「偽物では、ない……?」
血の気が引いていくのがわかった。
もし、これが張徳海の偽造した勅命ではないとしたら。
もし、本物の皇帝が、自らの意志でこの文書に玉璽を押したのだとしたら。
青蘭の脳裏に、恐ろしい推論が雷のように閃いた。
救済米が横流しされた事件も、江南の豪族が民の土地を奪った事件も。皇帝は、宦官や悪徳官吏たちの腐敗を『見逃して』いたのではない。
皇帝自身が、その腐敗を統治の道具として『許して』いたのだ。
民から正規の手段で税を絞り取れば、反乱が起きる。
だが、悪徳官吏にわざと不正を働かせて富を集めさせ、その上前を都へ納めさせれば、皇帝の懐は痛まずに国庫が潤う。暴動が起きれば、その悪徳官吏を切り捨てて「成敗した」と宣言すればいい。
民は飢えても、また数年すれば増える。官は腐っても、替えが利く。だが、軍事費が尽きて帝位が揺らげば国は割れる。ならば、末端の腐敗も、民の犠牲も、すべては国家を維持するための『必要悪』である――。
それが、この本物の勅命に隠された、帝の冷酷な論理だった。
「……そんな、馬鹿な」
青蘭は、震える手で文書を取り落とした。
無実の罪で処刑された父の顔が浮かぶ。
井戸に沈められた老人の顔。外戚に売り飛ばされた女官たちの涙。
彼らは、たまたま悪徳官吏の犠牲になったのではない。この国の頂点に立つ皇帝が、国を回すための油として、彼らの命を帳簿の上で擦り潰すことを許容していたのだ。
『――随分と、絶望的な顔をしているな』
ふと、書庫の澱んだ空気が、ふわりと甘く冷たい死の香りに塗り替えられた。
本棚の影から音もなく滑り出てきたのは、漆黒の衣を纏う精霊・烏露だった。
彼は優雅な足取りで青蘭の背後に歩み寄ると、その細い肩に手を置き、青ざめた頬に冷たい指先を這わせた。
『お前が信奉してやまない「人間の法」とやら。その頂点に立つ神が、一番の腐れ外道だったというわけだ』
烏露の吐息が耳元を撫でる。
青蘭の袖口の下で、手首の『毒痕』が、主の深い絶望と怒りに呼応してズキリと熱を持った。
『傑作だな。お前は法を守るために、法を司る官吏になった。だが、その法自体が、弱い民を食い殺すために作られた刃だったのだ。お前がいくら証拠を集めても、裁くべき頂点が悪そのものなら、誰がその証拠を認める?』
烏露は、床に落ちた勅命の控えを足先で軽く小突いた。
『どうする、柳青蘭。お前のその分厚い調書も、もはやただの紙屑だ。……私に命じるか? あの忌まわしい宦官も、玉座でふんぞり返る皇帝も、私の毒ならいとも容易くその肺を溶かしてやれるぞ』
精霊の囁きは、これまでになく蠱惑的で、残酷な優しさに満ちていた。
法が死んでいるどころか、最初から狂っていたのだとしたら。毒による私刑こそが、この国に残された唯一の救済ではないのか。
青蘭は、震える両手で自らの顔を覆った。
「……父上は、ただ……正しい記録を残そうと……」
声が、微かに掠れる。
だが、青蘭は顔を上げ、朱筆の転がる机を両手で強く叩いた。
「それでも……私は、毒の杯は選ばない」
『……なに?』
烏露の目が、微かに細められる。
青蘭は、振り返って烏露を真っ直ぐに睨み据えた。その瞳には、絶望の涙ではなく、さらに冷徹で昏い決意の火が灯っていた。
「皇帝が腐敗を許容しているのなら、皇帝自身がこの国の法を破っているということです。……ならば、皇帝を裁く法を見つけ出し、彼を法廷に引き摺り下ろすまで」
『人間風情が、帝を裁くと? 狂ったか。謀反人として八つ裂きにされるのがオチだ』
「死んだ法なら、掘り起こします。誰も玉座を裁けないと言うのなら……私が、その証拠の鎖を編み上げる」
青蘭は、床に落ちた勅命の控えを拾い上げ、その皺を丁寧に伸ばした。
もはや、目の前の小悪党を倒して終わる戦いではない。
この国の頂点に巣食う、最も強大で絶対的な権力。その欺瞞を記録によって打ち砕くための、本当の戦いが始まろうとしていた。




