第22話 井戸に沈んだ証人
江南の豪族たちを捕縛した『御史台の正式告発状』は、朝廷に確かな波紋を投げかけていた。
だが、巨大な権力の腐敗というものは、一部の枝葉を切り落とした程度で大人しく枯れ果てるほど柔なものではない。
「……また一人、消えたぞ」
御史台の執務室。梁景明が、苛立ちを隠せない様子で机に書類を叩きつけた。
青蘭は、胸をきつく縛る晒しの苦しさに耐えながら、静かにその書類に目を落とした。
「江南の豪族たちに帳簿の偽造を強要されていた、末端の帳簿係ですね。彼が都へ証人として護送される途中で、行方不明になったと」
「ああ。護衛の兵は眠らされ、帳簿係だけが忽然と姿を消した。……十中八九、豪族たちの残党か、都で彼らと癒着していた上の連中が手を回したのだろう」
その帳簿係の名は、孫だった。かつて郭英事件で裏帳簿を握りながら、娘を人質に取られて沈黙した男である。さらに彼は、江南豪族と内侍省の金の流れを清書させられていた。張徳海にとって、二重に危険な証人だった。
梁景明は、忌々しそうに舌打ちをした。
「奴らにとって、生きた証人は脅威でしかない。口を割られる前に消してしまえば、すべての罪を死人に押し付けられる。本当に、死人というやつは権力者にとって便利な道具だ」
その言葉は、青蘭の胸の奥底にある古傷を容赦なく抉った。
救済米事件の時と同じだ。あの時も、真実を話すと言ってくれた老人は、暗い井戸の底に沈められ、「事故死」として処理された。
生者の声は奪われ、記録は燃やされ、法は死んだ。
「……彼を、殺させるわけにはいきません」
青蘭は、兄の遺品である朱筆を力強く握りしめ、護送ルートの記録と都の地図を広げた。
異常な記憶力が、膨大な過去の記録を脳内で繋ぎ合わせていく。護送団が襲撃された地点、兵たちが眠らされた薬の効き目から推測される移動距離、そして、人目を避けて証人を処理するのに適した「空白の土地」。
「都の北西。かつて疫病で放棄され、今は戸部の台帳からも外されている廃村……。そこに、水を湛えたままの古い井戸があるはずです」
「青嵐、まさか一人で行く気か! 張徳海の目があるんだぞ!」
梁景明の制止の声を背に受けながら、青蘭は執務室を飛び出していた。
間に合わなければならない。あの時の絶望を、二度と繰り返すわけにはいかない。
*
都の北西にある廃村には、冷たく重い雨が降り頻っていた。
足元の泥濘が官衣の裾を重く濡らす。歩幅を広げて走るたびに、胸の布が肋骨を締め付け、息が白く乱れた。
崩れかけた土壁の影に身を潜めた青蘭は、雨音の向こうから聞こえてくる男たちの声にハッと顔を上げた。
廃村の広場の中央。ぽつんと残された古い石造りの井戸の前に、数人の屈強な男たちが、後ろ手に縛られた一人の小柄な男――行方不明になっていた帳簿係を引き立てていた。
「恨むなら、余計な帳簿を残した自分を恨むんだな」
男の一人が、帳簿係の胸ぐらを掴んで井戸の縁へと押し付けた。
「ひっ、や、やめてくれ! 私は何も言わない! 帳簿のことも、すべて忘れる!」
「死人に口はないって言うだろ? お前がここで足を滑らせて井戸に落ちてくれれば、皆が丸く収まるんだよ」
ならず者が、腰の短刀に手をかける。
帳簿係の顔が、絶望に歪んだ。
――フラッシュバックする。
孫娘の阿梨の手を握り、「本当のことを話す」と約束してくれた老人の顔が。
そして、上官の冷たい「誤って井戸に落ちて死んだそうだ」という言葉が。
「やめろッ!」
青蘭は、思わず物陰から飛び出そうとした。
だが、距離が遠すぎる。男の短刀が帳簿係の心臓を貫く方が、どう考えても早い。
間に合わない。またしても、真実は井戸の底に沈められてしまうのか。
『――だから、殺せと言っているのだ』
不意に、降り頻る冷たい雨が、空中でピタリと静止した。
青蘭の背後から、闇そのものを切り取ったような漆黒の衣が翻る。
毒の精霊・烏露だった。
彼は音もなく青蘭の背後に密着し、その細い首筋に氷のような吐息を吹きかけた。
『私の毒なら、あの男たちの肺を一瞬で溶かせる。あんなクズどもを生かしておく理由はないだろう? さあ、命じろ、青蘭』
烏露の指先が、青蘭の手首を覆う袖口に触れる。黒い『毒痕』が、殺意を求めて熱く脈打った。
「……だめだ」
青蘭は、震える声で明確に拒絶した。
「彼らを殺しても、証拠は残らない。また別の誰かが罪を被せられるだけだ。私が欲しいのは、死体ではない。生きた証言だ」
青蘭は、烏露の冷酷な目を見つめ返した。
「殺すな。……守れ。お前の力で、あの証人を守り抜け」
『ほう?』
烏露は、意外そうに目を丸くした後、喉の奥で低く笑った。
『毒を使って命を救えと? 人間というのは、本当に物好きな生き物だ。……いいだろう。お前の強情には付き合ってやる』
烏露が、雨粒の向こうに立つ帳簿係に向けて、すっと細い指を伸ばした。
その瞬間。
「が、はッ……!?」
短刀を突きつけられていた帳簿係が、突如として白目を剥き、自らの喉を掻き毟りながら大きくのけぞった。
「な、なんだ!?」
「おい、どうした!」
ならず者たちが驚いて手を離す。
帳簿係は、口から白い泡を吹き、全身を硬直させながら――そのまま背後の古い井戸の中へと、真っ逆さまに転落していった。
ドボンッ、という重い水音が、雨の廃村に響き渡る。
「……き、急に発作を起こしやがった。なんだってんだ」
「まあいい。どのみち井戸の底だ。あんな状態じゃ、一分も持たずに溺れ死ぬだろうさ。俺たちは手出ししてねえ、完璧な事故死だ。引き上げるぞ」
ならず者たちは、気味悪そうに井戸を覗き込んだ後、足早に闇の中へと消えていった。
*
男たちの気配が完全に消えたことを確認し、青蘭は井戸へと駆け寄った。
冷たい石の縁から身を乗り出し、暗い水面を見下ろす。
帳簿係は、水面に浮かんだまま、ピクリとも動いていなかった。呼吸をしている気配もない。
「……烏露、お前、まさか」
青蘭の顔が青ざめる。
守れと言ったのに、毒で殺してしまったのではないか。
『慌てるな。私の毒を何だと思っている』
傍らに立つ烏露が、つまらなそうに鼻を鳴らした。
『あれは『守る毒』だ。一時的に心臓の鼓動を極限まで遅くし、仮死状態にしてある。水に落ちようが、一刻(約二時間)は息継ぎなしで生きられる。……さっさと引き上げてやれ。私の毒は、いつまでも優しくはないぞ』
青蘭は弾かれたように井戸の縄を掴み、滑車を回して帳簿係の身体を引き上げた。
冷たい雨の中、引き上げられた帳簿係の身体は氷のように冷たく、脈も感じられなかった。
「……お願いです。戻って」
青蘭は、帳簿係の胸に手を当て、祈るように呟いた。
烏露が指を鳴らす。
その瞬間、帳簿係の口からドバッと大量の水が吐き出され、「ゲホッ、ゴホッ!」と激しい咳込みと共に、胸が大きく上下し始めた。
「あ、ああ……っ! 私は……死んだのでは……」
帳簿係が、恐怖と混乱の中で目を開ける。
青蘭は、安堵で全身から力が抜けるのを感じ、泥だらけの地面に膝をついた。
手首の毒痕が、今は不思議なほど静かに、熱を持たずに沈黙している。
殺すための毒が、命を救った。
表向きは井戸に沈んで死んだことになった証人を、実際には生かして逃がす。
あのとき権力によって井戸の底に沈められた老人の命。あの時の絶望と無力感が、今、少しだけ救済されたような気がした。
「お前が誰であろうと、生きてさえいれば証言はできる。娘は景玄王府が保護した。もう脅しには使わせない」
後から駆けつけてきた梁景明たちが、帳簿係を保護しながら、青蘭の背中を叩いた。
「ありがとうございます、お役人様……。私、すべてお話しします。江南の豪族たちが、都の誰と繋がっていたのかを」
帳簿係は、震える声でそう告げた。
青蘭は、泥に汚れた官衣の袖を絞りながら、冷たい雨の空を見上げた。
証人は生還した。死んだ人間として扱われることで、逆に安全を手に入れたのだ。
だが、彼の口から語られる真実は、きっと張徳海という怪物の核心へと繋がっている。
法廷での真の戦いは、今まさに幕を開けようとしていた。




