第19話 帳簿の空白
御史台の奥深くにある古い文書庫は、夜が明けてもなお、日の光を拒むように冷え切っていた。
柳青蘭は、机の上に積み上げられた江南州の過去数年分の税収記録、戸部の台帳、そして鄭介の赴任前の経歴書に囲まれ、瞬きすら忘れて文字の海を泳いでいた。
昨夜、烏露の甘い毒の誘惑を退け、朱筆を止めたあの瞬間から、青蘭は一つの『空白』に取り憑かれていた。
鄭介が民から搾取し、国庫から消し去ったとされる莫大な富。それが彼の個人の財産として計上されていない不自然さ。
その矛盾を紐解くため、青蘭は鄭介という男の官吏としての足跡を遡っていた。
「……彼は、数年前に都で治水と農政の策を上奏しています。その内容は、極めて民に寄り添った実直なものでした。これほど民草を案じていた男が、地方へ下った途端に、娘を遊郭に売らせるほどの悪鬼に成り果てるものでしょうか」
低く作った声が、カビの匂いのする書庫に虚しく響く。
人は権力を持てば腐る。それは痛いほど見てきた。だが、記録に残る彼の筆跡は、どこまでも几帳面で誠実だ。
青蘭は、密告状に同封されていた「鄭介の隠し蔵へ運ばれた米の量」を示す記録と、戸部から今年になって江南州に割り当てられた「帝の勅命による特別徴税」の記録を並べた。
今年の江南は、日照り続きで不作だった。にもかかわらず、都での大規模な宮殿改修のために、帝は例年の倍近い無慈悲な重税を課している。
「……額が、完全に一致しています」
青蘭の朱筆が、二つの帳簿の数字を赤く囲んだ。
隠し蔵へ消えたとされる米の量は、帝が民に課した理不尽な特別徴税の量と全く同じだった。
さらに、密告状に書かれた「餓死者」や「娘が売られた」という悲惨な記録の日付を確認する。それは、鄭介が江南に赴任する『前』、前任の長官の時代の記録を巧妙に切り貼りしたものだった。
「なんという……」
青蘭は、息を呑んで背もたれに寄りかかった。
すべてが、氷解した。
鄭介は民から搾取などしていない。逆だ。
不作に苦しむ民からこれ以上の税を絞り取れば、村は全滅する。だから彼は、自らが『悪徳官吏として私腹を肥やし、米を隠し持っている』という偽の帳簿を作り上げたのだ。
国庫に納めるべき米を悪人が奪ったことにして都への納入を拒み、実際にはその米を隠し蔵から少しずつ民へ還流させ、彼らが飢えを凌げるように守っていた。
帳簿の『空白』は、彼が命懸けで民を庇った盾の跡だった。
「では、この密告状は……」
青蘭は、告発状の末尾にある差出人たちの名を睨んだ。
地元の名士や末端役人の名が連なっている。彼らはおそらく、帝の重税に乗じて本当に民から搾取を行おうとしていた地元の腐敗層だ。
彼らにとって、民を守るために悪人の泥を被る鄭介は、自分たちの利益を邪魔する目障りな清官でしかない。
だから、鄭介を『悪徳官吏』として御史台に密告し、都の力で合法的に排除しようと企んだのだ。清官を消すための、極めて悪質で巧妙な罠だった。
「は、あ……っ」
青蘭の喉から、震えるような浅い呼吸が漏れた。
全身の血が逆流するような恐怖が、遅れて襲ってきた。
胸を縛る布が、急激に噴き出した冷や汗を吸って重く冷たくなる。官衣の袖を強く握りしめる手が、ガタガタと制御不能なほどに震えていた。
もし、昨夜。
目の前に突きつけられた「悲惨な事実」と、烏露の「今すぐ民を救える」という甘い言葉に負けて、一言でも『殺せ』と命じていたら。
あの毒は、証拠など確認しない。青蘭の怒りだけを道標にして、鄭介の喉元を食い破っていただろう。
私は、民を守るために命懸けで戦っていた正義の官吏を、この手で惨殺していたことになる。そして、密告状を送ってきた本当の悪人たちを喜ばせ、江南の民を真の地獄へと突き落としていたのだ。
「私、は……」
無実の人間を殺しかけた。
己の浅はかな正義感と、毒という圧倒的な暴力に酔い、取り返しのつかない罪を犯すところだった。
『――どうした、青蘭。随分と青ざめているな』
書庫の静寂を破り、ひやりとした冷気と共に烏露が現れた。
漆黒の衣を翻し、彼は書庫の机の上に腰掛けると、楽しげに青蘭を見下ろした。
『昨夜の標的はどうした? まだ奴の名前を朱筆で塗り潰していないようだが。さあ、早く命じろ。私の毒が、奴の臓腑を喰い破りたくてうずうずしている』
「……お前は」
青蘭は、震える手で自らの右腕を掴んだ。
袖の奥に潜む黒い『毒痕』が、まるで主の破滅を嘲笑うかのように、熱を持たずに黒々と肌に張り付いている。
「お前は、最初から知っていたのか? この密告状が、鄭介を陥れるための罠だと」
『さて、どうだったかな』
烏露は悪びれる様子もなく、薄く微笑んだ。
『言ったはずだ。私の毒は、お前が「裁かれるべき」と認めた相手に届く。お前がその紙切れを信じ、怒りに身を任せたなら、私はただその望み通りに殺してやるだけだ。相手が善人か悪人かなど、毒にとっては些末な問題だ』
残酷なまでの事実。
毒は、真実を区別しない。刃を振るう者の心が曇れば、いとも容易く無実の命を奪う。
「……鄭介は、無実だ。彼は民を守るために帳簿を偽っていた」
青蘭は、声を震わせながらも、烏露を真っ直ぐに睨み返した。
「殺さない。絶対に。もし彼が毒で死ねば、本当の悪人たちが江南を支配することになる。……私は、またしても証拠という真実に救われたのだ」
もし人間の法という「遅鈍な手続き」を踏んでいなければ、青蘭は疑う時間すら持てなかっただろう。
烏露は、退屈そうにため息をついた。
『つまらん。せっかくの上等な怒りが、またしても理屈の海に消えてしまったか』
烏露は机から降り、青蘭の頬に冷たい指先を這わせた。
『だが、震えが止まっていないぞ、柳青蘭。お前は今、自分が手にした力と、人間の危うさに恐怖している。……毒を恐れる間は、お前はまだ、この腐った国で足掻くことができるだろう』
精霊は、闇に溶けるようにして消えていった。
一人残された書庫で、青蘭は深く息を吸い込んだ。
鄭介の命は救われた。だが、問題は解決していない。
このままでは、彼は「私腹を肥やした悪徳官吏」として、大理寺の正式な審問にかけられ、処刑されてしまう。
帝の重税を誤魔化したという事実はあるのだ。彼を救うためには、密告状を送ってきた地元豪族たちの『真の横領』を暴き、鄭介の行動が「緊急の避難措置」であったと証明しなければならない。
「私は……毒ではなく、この手で彼を救わなければならない」
青蘭は、震えの止まった手で再び朱筆を握り、密告者たちの名簿に鋭い視線を向けた。




