第20話 毒を止める手
御史台の文書庫。冷たい石壁に囲まれたその部屋で、柳青蘭は一晩中、狂ったような速度で過去の記録を漁り続けていた。
無実の地方官・鄭介を陥れるため、悪辣な密告状を都へ送りつけてきた江南の豪族たち。彼らの「本当の罪」を暴き出すためだ。
青蘭の指先が、戸部から取り寄せた江南州の土地台帳と、密告状に署名していた豪族たちの納税記録を凄まじい勢いで照合していく。
胸をきつく縛る晒しが、徹夜の疲労と焦燥で重く感じられた。息をするたびに肋骨が軋むが、今は立ち止まるわけにはいかない。少しでも法の手続きが遅れれば、大理寺に捕らえられた鄭介は「悪徳官吏」として首を刎ねられてしまう。
「……見つけました」
血走った目で、青蘭は朱筆を握り直した。
密告状に名を連ねていた地元豪族の王家と李家。彼らの納税記録は、ここ数ヶ月「不作のため皆無」と申告されている。
しかし、別の部署である刑部が管轄する『土地売買記録』には、全く違う現実が記されていた。
「彼らはこの数ヶ月で、税を払えなくなった農民たちから、不自然なほど大量の田畑を買い上げている。それも、市場価格の十分の一という法外な安値で」
青蘭は、二つの帳簿の矛盾を朱筆で赤々と囲み、低い声で唸った。
「買い上げるための莫大な資金は、一体どこから出たのか。……決まっています。彼らが州の国庫から盗み出し、鄭介の罪として密告状に書き連ねた『消えた税』そのものです」
すべてが一本の線で繋がった。
豪族たちは結託して税を横領し、その金で困窮した民の土地を不当に奪い取っていたのだ。鄭介は、彼らの悪行を食い止め、民を守るために帳簿を偽装して米を隠していたに過ぎない。
自らの富を肥やすために、国を欺き、民を食い物に張り、あまつさえ己の罪を清官になすりつける。
「許せない……ッ!」
青蘭の口から、どろりとした激しい怒りが漏れ出した。
これほどの悪辣な連中が、涼しい顔で地方を牛耳り、正義の面をして密告状を送ってきている。法を嘲笑う彼らの傲慢さが、青蘭の胸の奥底にある黒い炎に油を注いだ。
殺してやりたい。こんな奴ら、今すぐこの世から消し去ってしまえばいい。
『――ああ、素晴らしい。最高の怒りだ、柳青蘭』
ふと、文書庫の乾いた空気が、甘く腐ったような死の香りに塗り替えられた。
背後の本棚の影から、漆黒の衣を纏った精霊・烏露が、音もなく滑り出てくる。彼は陶然とした笑みを浮かべ、青蘭の細い肩越しに帳簿を覗き込んだ。
『真の悪党どもを見つけ出したのだな。お前の内側から溢れ出す怒りの匂いが、私の毒をひどく刺激する』
烏露の氷のような指先が、青蘭の手首に触れた。
その瞬間、官衣の袖の下に隠された黒い『毒痕』が、ドクン、と心臓の鼓動よりも大きく脈打った。
熱い。焼け焦げるような熱が腕を駆け上がり、青蘭の視界がぐらりと歪む。
『お前の怒りは正しい。あの豪族どもは、生かしておく価値のない豚だ。……さあ、私に命じろ。あの者どもの喉を焼き切り、腹の底から腐らせてやろう。奴らが血を吐いて死ねば、奪われた土地も米も、すべて民の元へ戻る』
烏露の囁きは、甘美な麻薬のようだった。
彼らを殺せば、鄭介の無実は証明されずとも、巨悪は確実に排除される。法という遅鈍な手続きを待つ必要はない。今すぐ、あの悪魔どもに天罰を下せるのだ。
青蘭の腕から、墨よりも黒い妖気が、どろどろと煙のように立ち上り始めた。それは青蘭の殺意を道標にして、江南の空へ飛んでいこうと蠢いている。
「あ……」
一瞬、青蘭の心は毒の圧倒的な力に呑まれかけた。
だが、脳裏に閃いたのは、昨日、無実の鄭介を殺しかけて震えた自分自身の姿だった。
毒は証拠を残さない。豪族たちが死ねば、彼らが奪った土地の記録も、鄭介が民を守ろうとした真実も、すべてが曖昧なまま闇に葬られてしまう。
それでは、記録を燃やして現実を殺す張徳海と、何ら変わりはないのではないか。
「……だめだ」
青蘭は、ギリッと奥歯を噛み締め、立ち上る黒い煙を抑え込むように、自らの右の手首を左手で激しく掴んだ。
「だめだ……止まれ……ッ!」
『何をしている?』
烏露が、不審そうに目を細めた。
「彼らを殺してはいけない……! この帳簿と告発状を持って、彼らを法廷に引き摺り出す。記録によって、彼らの罪を白日の下に晒さなければならないのだ……!」
青蘭は、自らの内に渦巻く殺意を、強靭な理性で檻の中へ押し戻そうとした。
溢れ出ようとする毒の力と、それを拒絶する青蘭の意志。二つの相反する力が、青蘭の細い腕の中で激しく衝突する。
『狂ったか、青蘭! 一度形を成そうとした呪いを、お前自身の意志で塞ぎ止めればどうなるか……!』
烏露の顔から余裕が消え、初めて焦燥の色が浮かんだ。
だが、青蘭は手首を掴む力を決して緩めなかった。爪が皮膚に食い込み、血が滲む。
「止まれと言っている……! 私は、私の意志で、法を選ぶ……ッ!!」
バチンッ、と。
見えない何かが弾けるような音がした。
江南へ向かおうとしていた黒い妖気が行き場を失い、逃げ場を求めて逆流し――そのまま、青蘭の身体の奥深くへと叩き込まれた。
「ガ、あぁぁぁッ……!!」
悲鳴ともつかない絶叫が、青蘭の喉から迸った。
焼けた鉛を血管に流し込まれたような、絶望的な激痛。手首の毒痕がどす黒く変色し、まるで火傷のように爛れた熱を持つ。
青蘭は椅子の背を蹴り倒し、冷たい石の床の上へともんどり打って倒れ込んだ。
『青蘭……!』
烏露が、床に蹲る青蘭の傍らに膝をついた。
青蘭の身体は、尋常ではない高熱を発し、ガタガタと激しく痙攣していた。額からは滝のように汗が噴き出し、青白かった顔が異常な赤みを帯びている。
呼吸をするたびに、胸を縛る晒しが肺を圧迫し、ヒュー、ヒューと苦しげな音が漏れた。
「はぁっ、はぁっ……が、は……っ」
青蘭は、石の床を掻き毟りながら、朦朧とする意識の中で必死に息を吸い込もうとした。
毒の跳ね返り。それは、人間の肉体には到底耐えられないほどの劇物だった。全身の関節が砕けそうに痛み、内臓が煮え繰り返るような熱さに焼かれている。
医官を呼べば、確実に女だとバレる。一人で、この致死の熱に耐え抜かなければならない。
『愚か者が……! なぜ止めた! 放っておけば奴らは死に、お前は無傷で済んだというのに! なぜ、そこまでして人間の法などに拘る!』
烏露は、青蘭の肩を掴み、怒りと苛立ちに満ちた声で叫んだ。
その顔には、彼自身も理解できない、奇妙な焦りが浮かんでいた。
青蘭は、焦点の合わない目で、漆黒の精霊の顔を見つめ返した。
全身が炎に包まれたように熱い。それでも、彼女の瞳の奥にある意志の光だけは、決して消えてはいなかった。
「……のぞ、んだのは……」
乾ききった唇が、微かに動く。
「望んだのは、裁きです……」
『なに……』
「殺しでは、ありません……。彼らを……人間の法廷に……立たせる……」
その一言を絞り出した瞬間、青蘭の意識は完全に途切れ、糸が切れた操り人形のように床に崩れ落ちた。
石の床に倒れ伏した青蘭の胸は、浅く、ひどく不規則に上下している。
彼女の血だらけの指先には、豪族たちの罪を証明する帳簿の写しが、しわくちゃになってもなお、しっかりと握りしめられていた。
烏露は、意識を失った青蘭を腕に抱き留め、その無防備な顔をじっと見つめ下ろした。
毒を止める手。殺す誘惑を、自らの命を削ってまで拒絶した強情な心。
『……本当に、理解不能な生き物だ、お前は』
烏露の声は、怒っているようでもあり、同時に、底知れぬ歓喜に打ち震えているようでもあった。
彼女の魂は、毒に染まることを拒み、法という紙切れにしがみついている。だが、その愚直なまでの気高さが、烏露の存在をいっそう深く惹きつけてやまなかった。
冷たい文書庫の床の上で、精霊は燃えるように熱い少女の身体を抱きしめ、ただ静かに夜明けを待っていた。




