第18話 烏露の歓喜
深夜の御史台。
分厚い石壁に囲まれた執務室は、まるで墓所のような静寂と冷気に満ちていた。
机上の燭台が頼りなく揺れ、柳青蘭の青白い横顔を照らし出している。彼女の目の前には、江南の州から決死の覚悟で届けられた、州長官・鄭介の悪逆非道を記した直訴状の束が積まれていた。
ページをめくるたび、青蘭の指先が微かに震える。
そこに記された文字は、もはや単なる墨の羅列ではなかった。飢えと暴力に蹂躙された、数え切れないほどの民の悲鳴そのものだった。
『……秋の収穫の六割を強制的に徴収。翌年の種籾すら残されず』
『……税を納められぬ村からは、労働力として男を、借金の形として娘を連行。遊郭への人身売買の記録あり』
『……餓死者の数は先月のみで百を越え、道端には筵すら掛けられぬ遺体が散乱している』
胸をきつく縛り上げる晒しが、ギリリと肋骨を締め付ける。
息が詰まるのは、決して物理的な苦しさのせいだけではない。法を司るはずの官吏が、その権力を暴力に変え、最も守るべき弱い民を食い物にしているという現実が、青蘭の胸の奥底にどろどろとした黒い怒りを生み出していた。
かつて、青蘭の父もまた、こうした権力の腐敗によって無実の罪を着せられ、処刑された。
兄も、証拠を握り潰そうとする者に命を奪われた。
権力者が帳簿の数字を一つ書き換えるだけで、何百、何千という命が消えていく。その理不尽な光景が、直訴状の文字を通して青蘭の脳裏に鮮明に浮かび上がる。
『――美しい怒りだ』
ふと、執務室の冷たい空気が、ふわりと甘く腐ったような香りに塗り替えられた。
背後の暗がりから、漆黒の衣を纏った精霊が、音もなく滑り出てくる。
烏露だった。
彼は優雅な足取りで青蘭の背後に回り込むと、その細い肩越しに、冷たい頬を青蘭の耳元へとすり寄せた。
『ページをめくるたびに、お前の内側で煮えたぎるその感情。……ああ、たまらなく甘い匂いがするぞ、青蘭』
烏露の吐息が首筋を撫でた瞬間、青蘭の官衣の長い袖の下で、手首に刻まれた黒い『毒痕』が、ドクン、と生き物のように大きく脈打った。
熱い。焼けるような痛みのはずなのに、なぜかそれが、ひどく心地よい痺れとなって全身の血を巡っていく。
『この鄭介という男、生かしておく理由が一つでもあるか?』
烏露の氷のような指先が、青蘭の腕を滑り降り、朱筆を握る彼女の手にそっと重ねられた。
『お前が信じる人間の法とやらは、どうしようもなく遅鈍だ。この告発状を裏付け、大理寺の印をもらい、御史台の会議にかける。……その果てしない手続きを待っている間にも、江南では毎日、子供が飢え死にし、娘が売られていくのだぞ』
「……」
『だが、私の毒なら違う。どんなに分厚い帳簿の壁も、権力の盾も、すべてをすり抜けて奴の喉元へ届く』
烏露の言葉は、恐ろしいほどに甘美な麻薬だった。
青蘭は、目を閉じた。
一言、「殺せ」と念じればいい。そうすれば、あの男の肺は溶け、黒い血を吐いて死ぬ。明日には、江南の民から不当に奪われた米が解放され、飢えた子供の腹を満たすだろう。
法廷に引き摺り出し、正式な証拠で裁く。
それが青蘭の誓いだ。しかし、目の前で今まさに死に絶えようとしている命を前にして、その誓いは「冷酷な自己満足」に過ぎないのではないか。
毒を使えば、今すぐ民を救えるのだ。
「……私の、一存で」
『そうだ。お前の怒りだけが、この腐った国を浄化する唯一の真実だ』
烏露は、青蘭の手を包み込むようにして、朱筆の先を告発状に書かれた『鄭介』の名の上へと導いた。
『人間は脆く、愚かだ。保身のために嘘をつき、弱い者を踏みにじる。だが、お前は違う。お前の怒りは、私怨を超えた美しい呪いだ』
精霊の瞳が、狂気にも似た歓喜の色に染まる。
これほどまでに深く、純粋な怒りを持つ人間を、烏露は他に知らない。彼女が毒に頼り、その怒りのままに魂を黒く染め上げていく過程が、たまらなく愛おしかった。
いずれ、この誇り高く強情な女が、人間の法という偽善を完全に捨て去り、己の毒だけを頼るようになる。その日が近づいていることを、烏露は肌で感じて打ち震えていた。
『さあ、その筆で奴の名を赤く塗り潰せ。それが合図だ』
烏露の囁きに誘われるように、青蘭の指先に力がこもる。
朱筆の先が、紙面に触れようとした。
あと一分の距離。その赤い線を引けば、鄭介の命は跡形もなく消え去る。
だが。
「……待って」
青蘭の異常な記憶力と、監察官としての冷徹な理性が、極限の状態で微かな警鐘を鳴らした。
直訴状に記された、膨大な横領の記録。
消えた税の行方。鄭介の隠し蔵。そして、民の餓死者数。
青蘭の目が、帳簿の写しの一角に不自然な『空白』を捉えた。
「この数字……おかしい」
『……何がだ? 奴が税を私物化している証拠は、そこにあるだろう』
烏露が不満げに眉をひそめる。
青蘭は、烏露の手を振り払い、朱筆の先をピタリと止めた。
「確かに、州の国庫から莫大な額の税が『消去』されています。ですが、直訴状に書かれているような、それと同等の富が鄭介の個人の蔵に『増加』したという記録の裏付けが……この帳簿のどこにも存在しません」
青蘭は、低く作った声で早口に呟きながら、別の木簡を素早く引き寄せた。
「彼は中堅の官吏。これほど大規模な搾取を数ヶ月も続ければ、必ずその金の流れがどこかに……例えば、都の高官への賄賂や、大規模な屋敷の建設などに現れるはずです。しかし、彼の出費記録は、赴任前と何ら変わっていない」
『隠しているだけだろう。悪人とはそういうものだ』
「いいえ。帳簿の改竄は、必ずどこかに『辻褄合わせ』の歪みを生むのです。あの張徳海でさえ、女官を『物品』として記すという痕跡を残した。……なのに、この鄭介の記録には、消えた富の行き先を示す痕跡が、まるで刃物で切り取られたように『空白』になっています」
青蘭は、荒くなっていた呼吸を整え、自らの内にある黒い怒りを無理やり檻の中へ押し戻した。
手首の毒痕の熱が、急速に引いていく。
「……毒は、証拠を残さない」
青蘭は、自らを戒めるようにその言葉を口にした。
「もし今、怒りに任せて彼を殺せば、この帳簿の『空白』の真実は永遠に失われます。なぜ彼がこれほど無茶な徴税を強行したのか。奪われた米は、本当はどこへ消えたのか。……それを調べ尽くすまでは、決して裁きを下すことはできません」
青蘭が朱筆を置き、キッと烏露を睨み上げる。
そこには、先ほどまでの毒に呑まれかけていた女の脆さは微塵もなかった。真実を暴くための刃を研ぐ、大梁国の監察官の顔があった。
『……チッ』
烏露は、心底つまらなそうに舌打ちをした。
もう少しで、彼女の美しい怒りが完全に決壊し、自らの毒と一つになるところだったというのに。
『理屈っぽい女だ。その紙切れの「空白」とやらを追って、勝手に泥の中を這いずり回るがいい。だがな、青蘭』
烏露は、すっと影の中へと溶け込みながら、最後に甘く残酷な声を残した。
『お前が真実に辿り着いた時、再び私を呼ぶことになる。……その時を楽しみに待っているぞ』
冷気が完全に消え去った執務室で、青蘭はただ一人、帳簿の『空白』をじっと見つめていた。
この不自然な記録の消え方が意味するものは、果たして底知れぬ巨悪か、それとも――。




