第17話 殺すべき清官
後宮を舞台とした忌まわしい女官売買事件から、数日が経過していた。
御史台の執務室は、相変わらず冷たい石壁と、古い紙と墨の匂いに包まれている。だが、柳青蘭を取り巻く空気は、以前よりもさらに重く、張り詰めたものになっていた。
巨大な外戚である董家を失脚させた若き官吏・柳青嵐。
景玄王の名は、表向きにはどこにも出なかった。
朝廷で語られたのは、御史台の若き官吏・柳青嵐が、後宮と董家の癒着を暴いたという事実だけだった。
だがその名は、朝廷内で良くも悪くも知れ渡ってしまった。特に、内侍省を牛耳る張徳海からの視線は、背筋が凍るほど執拗で鋭い。すれ違う宦官たちの目は、青蘭の歩幅や、喉仏のない首元、そして長く垂れた官衣の袖口を、ねっとりと探るように這い回っている。
「……」
青蘭は、自らの執務机で、胸を縛る晒しの窮屈さに耐えながら小さく息を吐いた。
声を一段低く作り、決して手首が露わにならないよう、姿勢を固く保つ。息をするたびに肋骨が軋むが、少しでも気を抜けば、その瞬間に『男装の女』という大罪を引きずり出されてしまう。
そんな青蘭の机の上に、一通の分厚い密告状が置かれた。
「青嵐。江南の州から届いた直訴状だ。お前に回ってきたぞ」
先輩官吏の梁景明が、苦虫を噛み潰したような顔で書類の束を落とす。
「江南の、ですか。ずいぶんと分厚いですね」
「ああ。告発の対象は、江南一帯を治める地方官……鄭介だ」
「鄭介……?」
青蘭の異常な記憶力が、即座にその名に紐づく情報を引き出す。
数年前に都から江南へ赴任した中堅の官吏。目立った功績はないが、大きな失態もない、地味だが堅実な男という評価だったはずだ。
「彼が、何を?」
「ここ数ヶ月、異常な重税を民に課し、私腹を肥やしているという密告だ。それも、ただの噂じゃない」
青蘭は密告状を開き、兄の遺品である朱筆を手に取った。
そこに記されていたのは、目を覆いたくなるような惨状だった。
法定の税率を遥かに超える、非道な取り立て。米や金銭だけでなく、農具や家畜まで没収されたという村人たちの悲痛な訴え。さらに、税を払えなかった農民が娘を遊郭に売った記録や、餓死者が道端に転がっているという詳細な報告書が、地方の末端役人の署名付きで綴られていた。
「……ひどい」
低く作った声が、思わず怒りに震えた。
「同封されている地方帳簿の写しによれば、徴収されたはずの税の半分以上が、州の正式な国庫に入っていません。……消えた半分は、鄭介個人の隠し蔵へ運ばれたという目撃証言もあります」
青蘭の朱筆が、帳簿の数字の不自然な移動を次々と赤く染め上げていく。
帳簿の矛盾、複数の村からの直訴、そして末端役人の命がけの告発。すべての状況証拠が、鄭介という男が民の血肉を啜る悪鬼であることを示していた。
つい先日、後宮で消費される名もなき女官たちの絶望に触れたばかりだ。
国を支えるべき弱い民から、生きるための米を、家族を奪う。法を預かる官吏でありながら、自らの立場を悪用して搾取の限りを尽くす。
それは、青蘭が最も憎む『権力による暴力』そのものだった。
「状況証拠は真っ黒だな。だが、相手は江南を牛耳る州長官だ。確固たる『決定打』がなければ、この直訴状も結局は握り潰されるぞ」
梁景明の忠告に、青蘭は朱筆を強く握りしめた。
「調べます。彼がどれだけ巧妙に隠そうとも、人間が奪ったものの記録は、必ずどこかに残る。……この鄭介という男の罪を、必ず洗いざらい引き摺り出してみせます」
「無理はするなよ。張徳海の目があることを忘れるな」
梁景明が立ち去った後も、青蘭は密告状から目を離すことができなかった。
文字の羅列の向こう側に、飢えと寒さに震える民の姿が見えるような気がした。
娘を売られた親の絶望。餓死していく子供の泣き声。
蘇文達の時と同じだ。帳簿の上で私腹を肥やす者の陰で、どれだけの声が井戸の底に沈められているのか。
「……許せない」
青蘭の口から、どろりとした熱い感情が漏れ出した。
官衣の長い袖の下で、白く細い手首に刻まれた黒い『毒痕』が、ドクン、と不気味に脈打つ。
法で裁かねばならない。分かっている。だが、書類を一枚めくるたびに突きつけられる悪意の生々しさが、青蘭の胸の奥底にある黒い怒りを掻き立てていく。
『――良い顔をするようになったな、青蘭』
不意に、薄暗い執務室の空気が、ふわりと甘く腐ったような香りに塗り替えられた。
背後の死角から、音もなく滑り出てきたのは、漆黒の衣を纏う精霊・烏露だった。
彼は優雅な動作で青蘭の背後に立ち、その細い肩に両手を乗せ、氷のように冷たい頬を青蘭の耳元へとすり寄せた。
『怒っているのだろう? 民の血をすする、あの醜い豚のような官吏に。……お前のその怒りの匂い、たまらなく甘いぞ』
烏露の吐息が肌を撫で、手首の毒痕が呼応するように熱く疼き始める。
彼は、青蘭の手元にある鄭介の告発状を、面白そうに細めた目で見下ろした。
『殺すべき悪人が、また一匹現れたというわけだ』
「……私は、法で裁くと決めたはずです」
『そうだな。お前は一生懸命、その紙切れの山から証拠を探すのだろう。だが、見ろ。お前が呑気に朱筆を動かしている今この瞬間にも、どこかの村で飢えた民が息絶え、娘が売られているのだ』
烏露の言葉は、最も痛いところを正確に抉ってくる毒の刃だった。
『人間の法は遅い。お前が証拠を揃える前に、どれだけの命が消える? ……私を呼べ、青蘭』
精霊の冷たい指先が、官衣の布越しに、青蘭の心臓の位置をそっとなぞる。
『お前が一言「殺せ」と命じれば、今夜にでもその鄭介の喉を焼き切り、腹の底から腐らせてやろう。そうすれば、明日には民は救われる。……前のように、な』
「……っ!」
青蘭は、息を呑んで目を閉じた。
烏露の誘惑は、恐ろしいほどに理にかなっているように聞こえてしまう。
目の前にある真っ黒な状況証拠。許し難い悪行。
この男は、殺されても仕方がないのではないか。一瞬、そんな黒い感情が青蘭の心を支配しかける。
青蘭は、朱筆を握る手にギリッと力を込め、自らの怒りと、甘い毒の誘惑に必死に抗い続けていた。




