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第16話 毒杯ではなく告発状を

景玄王府の奥、灯りの落とされた書斎。


青白い手が、密かに届けられた告発状の写しをめくっていた。


「……柳青嵐」


病弱な皇弟と噂される景玄王は、その名を一度だけ呟いた。

机の脇には、地方から届いた陳情書らしき紙束が、布で覆われて積まれている。


やがて彼は、短く命じた。


「この件、握り潰されぬようにだけしておけ。私の名は、まだ表に出すな」



同じ夜。

御史台の狭い自室で、柳青蘭は一睡もできずに朝を待っていた。

景玄王の元へ、告発状の写しは無事に届いただろうか。もし彼が噂通りのただの病弱な皇族であれば、あの証拠は握り潰されるか、最悪の場合、張徳海へ差し出されるだろう。

それは、自分自身の破滅を意味する。


「……後悔は、していません」


青蘭は、薄暗い部屋の片隅で、冷え切った自らの両腕を抱きしめた。

男の姿では聞けなかった、小翠の怯えた声。そして、外戚の屋敷へと売り飛ばされ、今も声なき絶望の中にいる名もなき女官たち。彼女たちの存在を、これ以上『帳簿上の空白』にしておくことなど、絶対にできなかった。


『……ひどく脆い背中をしているな、柳青蘭』


ふと、部屋の空気が冷たく淀んだ。

音もなく影から滑り出てきたのは、漆黒の衣を纏う精霊・烏露だった。彼は優雅な動作で青蘭の背後に膝をつき、その細い首筋に顔を埋めるようにして囁いた。


『皇族の気まぐれな正義感などにすがるから、そうやって震えて夜を明かすことになるのだ』


烏露の氷のような指先が、青蘭の手首の『毒痕』をなぞる。

その瞬間、青蘭の視界の端で、黒い靄が揺れた。

それは杯の形を取りかけたが、烏露はすぐに笑って握り潰した。


『名を言え。殺すだけなら、それで足りる』


烏露は青蘭の手首の毒痕を、袖越しにそっとなぞった。


『董家の当主でも、董妃でもいい。名を言え。お前が裁かれるべきだと認めた者なら、私の毒は届く。明日には、あの者たちは二度と女を売れなくなる』


烏露の声は、どこまでも甘く、深く青蘭の心に浸透してくる。

この杯を望めば、明日にはすべての恐怖が消え去る。無力な女であるという事実も、法という不確かなものにすがる不安も

青蘭は静かに首を横に振った。


「殺せば、彼女たちの声まで消えます」


『……なに?』


烏露の甘い声が、微かに低く歪んだ。

青蘭は振り返り、精霊の残酷なほど美しい顔を真っ直ぐに見据えた。


「お前の毒は、悪人を殺すことはできる。だが、殺された彼らの罪を『記録』に残すことはできない。董妃を毒殺したところで、彼女は『哀れな病死を遂げた妃』として国史に記されるだけだ。売られた女官たちは、存在しなかったもののまま、どこかで見殺しにされる。……私は、そんな結末を望んでいない」


青蘭は、兄の遺品である朱筆を手に取った。


「私は殺し屋ではない。大梁国の監察官です。彼女たちの流した涙を、正式な証拠として残し……生きた人間の言葉で、あの悪党どもを法廷から引き摺り下ろす。それが、私の裁きです」


毅然と言い放つ青蘭の瞳には、一切の迷いがなかった。

烏露は、しばらくの間、無表情に青蘭を見つめていたが、やがてフンと鼻を鳴らして毒杯の幻影を掻き消した。


『強情な女だ。人間の作った遅鈍な法など、いずれお前自身を縛り首にする綱になるというのに』

「それでも構いません。私が法廷に立つまで、証拠を守れ。それが、お前との契約だ」

『……いいだろう。せいぜい長生きして、その無様な足掻きを私に見せてみろ』


烏露の姿が、夜明けの光に溶けるようにして消えていった。



数日後。

大梁国の朝廷は、前代未聞の激震に見舞われていた。

御史台の末席に連なる柳青嵐という若き官吏が、単独で書き上げた『後宮女官売買事件』の正式な告発状。景玄王府からの非公式な照会が同時に入ったことで、内侍省も御史台上層部も、この告発状を握り潰せなくなった。


「馬鹿な……! 後宮の名簿改竄と、董家への女官の移送だと!?」

「しかも、改竄の痕跡が物理的に立証されているというのか……!」


高官たちが青ざめた顔でざわめく中、内侍省の長・張徳海だけが、氷のように冷たい目で事の成り行きを見つめていた。


「(……柳青嵐。私の記録を、ここまで完全に崩してみせるとはな)」


張徳海の指先が、怒りで微かに震える。

告発状に添えられた証拠の数々は、言い逃れができないほどに緻密だった。董家の当主は即座に拘束され、後宮の董妃も軟禁状態に置かれた。そして、売り飛ばされていた数十名の下級女官たちが、無事に保護されたという報告が届いた。


御史台の廊下の片隅で、青蘭はその報告を聞き、深く、長く息を吐き出した。

胸を縛る晒しの苦しさが、今日だけは少しだけ軽く感じられた。


「お前が誰であろうと、その調書は本物だ」


背後から、先輩官吏の梁景明が静かに声をかけた。

彼は多くを語らなかったが、その言葉には確かな敬意が込められていた。


「ありがとうございます」


青蘭は短く答え、手首の『毒痕』を袖でしっかりと覆い隠した。

一つの大きな戦いには勝った。だが、本当の地獄はここからだ。自分の秘密に気づき始めた張徳海が、このまま黙って引き下がるはずがない。

法で裁けぬ悪を法廷に引き摺り出す戦いは、今、最も過酷な領域へと足を踏み入れたのだ。

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