第14話 湯殿の危機
昨夜の書庫での一件は、張徳海という怪物の眠りを完全に覚ましてしまったようだった。
翌朝、御史台に出仕した柳青蘭を待っていたのは、内侍省から派遣されたという数人の宦官と、青ざめた顔の医官たちだった。
「御史台の書庫にて、内侍省の宦官が不可解な火傷を負った。毒物の可能性があるため出入りしていた者たちの『身体検査』を実施する」
冷ややかな声で宣言したのは、張徳海の側近である。
その視線は、初めから青蘭ただ一人を真っ直ぐに射抜いていた。
表向きは「毒の持ち込みを調べるため」としているが、狙いは明らかだ。昨夜、青蘭と揉み合った宦官が報告した『手首の黒い痣』、そして『不自然に細い骨格と胸の布』。
青蘭が官職を騙る女であるという証拠を、白日の下に引き摺り出そうとしているのだ。
「特に柳大人。あなたは昨夜、不審な手傷を負った宦官と同室にいた。念入りに調べさせてもらう」
抗議する間も与えられず、青蘭は両脇を屈強な兵に固められ、御史台の裏手にある湯殿へと連行された。
湯殿は、身を清めるための場所だ。
もうもうと立ち込める白い湯気が、視界を白く濁らせている。湿った熱気が官衣にまとわりつき、胸をきつく縛り上げている晒しが息苦しさを倍増させた。
入り口の扉が重い音を立てて閉ざされ、外から鍵がかけられる。
湯殿の中に残されたのは、青蘭と、検査を命じられた年老いた医官、そして見届け役の宦官が二人だけだった。
「さあ、柳大人。すべての衣を脱ぎ、身を清めていただきましょう」
宦官が薄ら笑いを浮かべて促す。
青蘭は、一歩後ずさった。
脱げば終わる。
胸を潰す布も、手首を覆い隠す長い袖も、すべて剥ぎ取られれば、自分が女であることは一瞬で露見する。手首の毒痕を見られれば、相次ぐ高官の不審死の首謀者として断罪されるだろう。
「……私は、何も隠してはいない」
喉の奥から絞り出した低い声は、自分でも驚くほど震えていた。
医官が、無機質な目で青蘭に歩み寄ってくる。
「抵抗されるなら、こちらで脱がせるまで。押さえろ」
二人の宦官が、青蘭の腕を掴もうと距離を詰めた。
心臓が破裂しそうだった。頭の中で警鐘が鳴り響く。逃げ場はない。密室の湯殿で、女の力では彼らを振り解くことなど到底不可能だ。
『……だから言っただろう、柳青蘭』
ふと、湯殿に立ち込める白い蒸気が、一瞬にして黒く濁った。
むせ返るような湿気の中に、甘く腐ったような死の香りが混じる。
音もなく青蘭の背後に現れたのは、漆黒の衣を纏った精霊、烏露だった。
彼は湯気の中で妖しく微笑み、青蘭の首筋に冷たい指を這わせた。
『お前の愛する人間の法は、こういう時に何をしてくれる? 助けてはくれないだろう?』
「……っ」
『殺せと命じろ。そうすれば、この密室にいる三人の肺を、一瞬で溶かしてやる。悲鳴を上げる間も与えない』
烏露の囁きは、絶望の淵に立たされた青蘭にとって、あまりにも甘い誘惑だった。
こいつらを殺せば、自分は助かる。
証拠もなくなり、男装の秘密も守られる。
「さあ、柳大人。衣を」
宦官の手が、青蘭の官衣の襟元に伸びてきた。
殺せ。たった一言、その言葉を口にするだけでいい。
「……だめだ」
青蘭は、震える手で自らの襟を強く握りしめ、烏露の誘惑を明確に跳ね除けた。
「私の嘘を守るために……他人の血を流すことなど、絶対に」
『愚かな』
烏露がため息をついた、その時だった。
「――そこまでになさい」
密室であったはずの湯殿の扉が、外から勢いよく開け放たれた。
白い湯気を切り裂いて入ってきたのは、冷気に満ちた威厳を放つ女性。後宮の高位女官、白玉蓮である。
その背後には、以前青蘭が話を聞いた下級女官の小翠が、分厚い書類の束を抱えて怯えながらも必死に立っていた。
「な、白大人……!? ここは現在、内侍省の権限で身体検査を……」
「内侍省が何の権限で、私兵のように他部署の官吏を裸に剥いているのです」
白玉蓮の氷のような一瞥に、宦官たちは思わずたじろいだ。
「柳青嵐大人は、現在、我々後宮が依頼した『重大な内部調査』の任に就いています。彼をここで足止めし、無意味な検査で時間を空費させることは、後宮の秩序、ひいては妃殿下方の不興を買うことになりますよ」
「し、しかし! 彼は呪詛の疑いが……」
食い下がる宦官の前に、小翠が震えながらも一歩前に出た。
「や、柳大人は……昨夜も遅くまで、わたくしたちの証言を聞き、誠実に調査を……呪詛など、するはずがありませんっ!」
絞り出すような小翠の叫びは、弱々しくとも確かな真実の響きを持っていた。
白玉蓮は冷然と宦官たちを見下ろした。
「それに、身体検査の正式な大理寺の許可状はあるのですか? なければ、張大人といえど越権行為に問われますよ」
大理寺の許可状などあるはずがない。張徳海が独断で動かした私兵なのだから。
宦官たちは忌々しそうに舌打ちをすると、青蘭を睨みつけながら引き下がった。
「……今日のところは引き上げろ。だが、柳青嵐。張大人の目は誤魔化せないぞ」
宦官たちと医官が足早に立ち去り、湯殿に静寂が戻った。
青蘭は、張り詰めていた糸が切れ、その場に膝をついた。
全身が汗と冷や汗で濡れ鼠になっている。もし白玉蓮たちの到着が数秒でも遅れていれば、完全に終わっていた。
「……立てますか、柳青蘭」
白玉蓮が、青蘭の本来の名を小さく呼び、そっと手を差し伸べた。
その手は、冷たく見える彼女の印象とは裏腹に、確かな温もりを持っていた。
小翠も駆け寄り、「お役人様、大丈夫ですか」と涙ぐみながら青蘭の背中をさすってくれる。
「……ありがとうございます。あなたたちのおかげで、血を流さずに済みました」
青蘭は白玉蓮の手を借りて立ち上がり、深く頭を下げた。
「礼には及びません。あなたにここで倒れられては、消えた女官たちの行方が永遠に闇に葬られてしまいますからね」
白玉蓮は厳しく言い放ったが、その瞳の奥には微かな連帯の色が浮かんでいた。
「敵は強大です。張徳海は、あなたの綻びに完全に気づいた。もう、猶予はありません」
「ええ。分かっています」
青蘭は、自らの手首を強く握りしめた。
袖の奥の毒痕が、微かに熱を帯びている。
烏露は殺せと囁いた。だが、青蘭は殺さずに切り抜けた。女たちの助けによって。
暗がりの中で、烏露がフンとつまらなそうに鼻を鳴らして消えていく気配がした。
青蘭は、濡れた官衣の襟を正し、静かに前を見据えた。
外戚の屋敷の記録を完全に繋ぎ合わせ、告発状を完成させる。反撃の時は、もうすぐそこまで来ていた。




