第13話 名簿の女、帳簿の空白
御史台の奥深く、埃の舞う冷たい書庫の中で、柳青蘭は二つの帳簿を並べて息を詰めていた。
一つは、先日烏露の『暴く毒』によって改竄の痕跡が露わになった後宮の退官名簿。
そしてもう一つは、先ほど戸部の記録保管庫から苦労して探し出してきた、外戚・董家屋敷の出入り記録と、彼らが申告した家計の帳簿である。
「……やはり、間違いない」
青蘭は、兄の遺品である朱筆の先で、董家の帳簿にある不自然な数字を赤く囲んだ。
名簿上で下級女官たちが「実家へ帰還」し、董家へ「大型の箱」が下賜されたとされる日。その翌日から、董家の家計帳簿には奇妙な『空白』と『増加』が生じている。
新たな使用人を雇ったという記録はどこにもない(空白)。
にもかかわらず、屋敷で消費される米や野菜などの賄い飯の経費、そして安価な麻布の購入量が、箱が運び込まれるたびに不自然に跳ね上がっている(増加)。
絹織物や陶器が、飯を食い、衣を着るはずがない。
董家の屋敷の奥深くには、帳簿には存在しない『口』が二十個、確かに存在しているのだ。
「後宮名簿の改竄痕と、この董家の帳簿の矛盾……。二つを完全に繋ぎ合わせれば、女官たちが人身売買のために拉致されたという決定的な証拠になります」
青蘭は小さく震える息を吐き出した。
これで、大理寺を動かし、董家の屋敷を捜索させるだけの強力な武器が完成した。小翠たちのように、声なきまま闇に葬られようとしていた女たちの絶望を、白日の下に引き摺り出すことができる。
しかし、同時に青蘭の背筋には氷のような悪寒が走っていた。
この証拠の束は、張徳海にとって喉元に突きつけられた刃に等しい。記録で現実を支配する彼が、自らの作り上げた「嘘」を覆す文書の存在を、このまま黙って見過ごすはずがなかった。
『……怯えているのか、青蘭』
ふと、書庫の冷たい空気が、ふわりと甘く腐った香りに塗り替えられた。
本棚の影から、漆黒の衣を纏った烏露が滑り出てくる。彼は青蘭の背後に音もなく立ち、細い肩越しに帳簿を覗き込んだ。
「怯えてなどいません。ただ……この証拠を大理寺へ正式に提出する前に、張徳海の手の者に奪われる、あるいは燃やされる危険があると考えているだけです」
『なるほど。お前が「殺さない」と言うから、連中はまだ元気に嘘をつき、証拠隠滅の機会を狙っているというわけだ』
烏露は皮肉な笑みを浮かべ、青蘭の頬にひやりとした指先を這わせた。
『ならば、この紙切れに私の毒を食わせておけ。殺す毒でも、暴く毒でもない。お前が欲しがっていた、人間の法を護るための毒だ』
烏露が指を弾くと、彼の指先から透明な雫が名簿の上に落ちた。
雫は紙の繊維に染み込み、一瞬だけ妖しい紫色の光を放って、すぐに元の古紙の姿へと戻った。
『持ち主であるお前以外の者が、その書類を奪おうと触れれば、たちまち指の肉が焼け爛れるだろう。火の中にくべられようと、毒が炎を喰い尽くす。……これで安心だろう?』
「……ええ。感謝します」
青蘭が帳簿を懐にしまおうとした、まさにその時だった。
「――柳青嵐! そこにいるのは分かっているぞ!」
バンッ、と粗暴な音を立てて、書庫の重い扉が蹴り開けられた。
雪崩れ込んできたのは、内侍省の官衣を着た数人の下級宦官たちだった。その先頭に立つのは、張徳海の側近として知られる冷酷な目つきの宦官である。
烏露の姿は、すでに陽炎のように掻き消えていた。
「内侍省の者が、御史台の書庫に何の用ですか」
青蘭は、歩幅を広げて立ち上がり、男としての低い声を喉の奥から絞り出した。
だが、宦官は青蘭の威嚇など意に介さず、薄気味悪い笑みを浮かべてずかずかと歩み寄ってきた。
「とぼけるな。お前が最近、後宮の退官名簿や戸部の記録を嗅ぎ回っているという報告が上がっている。それは国家の機密に関わる重大な文書だ。御史台の若造が勝手に持ち出してよいものではない。……今すぐ、それをこちらへ渡してもらおう」
宦官の目が、青蘭の机の上と、隠そうとした懐のあたりを鋭く舐め回す。
「お断りします。これは私が正式な手続きを経て調査している案件の……」
「黙れ! 張大人の命に逆らう気か!」
宦官が怒声を上げ、強引に青蘭の胸ぐらを掴もうと手を伸ばしてきた。
青蘭は咄嗟に身を躱そうとしたが、背後の本棚に退路を塞がれ、官衣の襟元を強く掴まれてしまった。
「くっ……離せ!」
青蘭は抵抗し、宦官の腕を振り払おうとした。
そのもみ合いの中で、青蘭の厚い官衣が乱れ、胸元を縛り上げていた晒しの感触が、一瞬だけ宦官の手に伝わった。さらに、振り払おうと伸ばした青蘭の右腕から長い袖が捲れ上がり、白く細い手首が露わになった。
宦官の動きが、ピタリと止まった。
「……なんだ、お前。男にしては、ひどく骨格が細いな。それに……胸元に、布をきつく巻きつけているのか?」
宦官の目が、獲物を見つけた蛇のように細められる。
心臓が、凍りついたように止まった。
さらに宦官の視線は、捲れ上がった青蘭の手首に釘付けになった。そこには、烏露の毒を使った代償である、墨のような真っ黒い『毒痕』が、まるで生き物のように生々しく肌に張り付いていたのだ。
「その腕の、気味の悪い黒い痣はなんだ……? お前、まさか……」
疑念が、宦官の目の中で確信へと変わっていくのが分かった。
男装の偽り。そして、不審死を招く呪詛の力。
もしここで完全に暴かれれば、青蘭は終わりだ。法廷に立つ前に、全てが闇に葬られる。
「触るなと言っているだろう!!」
青蘭は、絶望的な恐怖を怒りに変え、宦官を突き飛ばそうとした。
だが、宦官は薄笑いを浮かべ、青蘭の懐にねじ込まれた帳簿へと強引に手を突っ込んできた。
「その証拠とやらも、没収させてもらうぞ!」
宦官の指先が、名簿の束に触れた。
その瞬間。
「ぎゃああああああああッ!!」
書庫の中に、鼓膜を劈くような宦官の絶叫が響き渡った。
名簿に触れた彼の手のひらから、紫色の煙が上がり、まるで煮えたぎる油に手を突っ込んだかのように、皮膚がジュウジュウと音を立てて焼け爛れていた。
命を奪う毒ではない。証拠を奪おうとした手だけを退ける、防壁のような毒だった。
「あ、あ、ああッ……! な、なんだこれは!? 痛い、熱いぃぃッ!!」
宦官は帳簿から弾かれたように手を離し、焼け焦げた自らの右手を押さえて床をのたうち回った。
同行していた下級宦官たちが、その異様な光景に悲鳴を上げ、青ざめた顔で後退りする。
「貴様……やはり、妖術を……!」
宦官は脂汗を流し、激痛に顔を歪ませながら、怨嗟の籠もった目で青蘭を睨みつけた。
「この痣……それに、あの体の細さ……。ただの病上がりではない。柳青嵐、貴様の秘密は、必ず張大人に報告させてもらうぞ……! 覚えておけ!」
宦官たちは、火傷を負った上官を抱えるようにして、這うように書庫から逃げ出していった。
静寂が戻った書庫の中で、青蘭はその場にへたり込み、荒い息を繰り返した。
懐の中の名簿は、烏露の『守る毒』によって無傷のまま守られていた。証拠は、奪われなかった。
しかし、代償はあまりにも大きかった。
宦官は、青蘭の華奢な身体つきと、胸を潰す布の感触、そして手首の毒痕を確かに感じ取った。
張徳海という怪物が、この報告を聞いて黙っているはずがない。彼らは必ず、青蘭の『男装』という最大の嘘を暴き、証拠もろとも御史台から排除しにくるだろう。
青蘭は、震える手で捲れた袖を直し、毒痕をきつく覆い隠した。
張徳海の足音が、もうすぐそこまで迫っている。
証拠を守り抜き、法廷に立つためには、もはや一刻の猶予も残されていなかった。




