第三十九話 暴走老人
月曜日の朝は憂鬱である。だが、出社しないわけにはいかない。今日の仕事はポスター貼りだった。貼る場所はイベントに協力してくれる飲食店と小売店。客が入る前の時間と、ピーク時を外しての作業だ。
ポスターに掲載されている名前に『幽々亭怪描』とあった。幽々亭怪描が若い黒人女性だと初めて知った。丸い顔に白い歯が印象的だ。
独演会で客を呼べる落語家は少ない。外国人の落語家や、女性の落語家は稀だがいる。黒人の落語家は、ちょっと思いつかない。さらに、若い。全ての条件を満たすとなるのだから稀有な存在だ。瓦は感心した。
「見た感じ俺と同世代くらいだ。こんな凄い人がいるんだ」
感心はしたが、「ならば俺も」とは瓦は考えない。
「俺がお前くらいの齢には――」と自慢するおじさんはいる。だが、「お前ぐらいの齢には、織田信長はもう大名だった」と説教する人は知らない。指摘されて「こうしちゃいられない」と奮起する人間にも遭遇することはない。
「どこの世界にも天才と呼ばれる人間はいる。怪描さんもそうなんだな。俺はどこにでもいる一般人だからな」
ポスターを貼る場所は五十か所だった。飲食店や小売店は同じビルの中にあるケースも多々あり、苦にならない。ポスターを貼りに行くと、どの店も愛想よく応じてくれる。
会社が店の人と良い関係を築いている。正に地元に根差した小さな企業だ。最後の一枚を貼る場所だけ、街中から外れていた。住所を頼りに行くと、古い日本家屋があった。
住所を間違えたかと一瞬、思ったが小さな看板が出ていた。店名に『しるこの戸波』と有るので飲食店だ。周りは寂れた住宅街だったので疑問もある。
「民家を改造して始めた店かな? この立地で経営が成り立つんだろうか」
商売抜きでやっている。賃料は安いだろうが、それでも立地は悪い。
「秘密警察のアジトのようだな。日本には秘密警察はないけど」
木製の引き戸が開いた。営業終了時間が近いので、店の人かな、と注視した。今後も顔を出すことになる。初対面で失礼があってはいけない。
店から出てきたのは頭の禿げた老人だった。恰好は黒の作務衣なので店の人と推測できた。だが、老人は手には槍を持っていた。汁粉を作るのに槍をどう使うのかは推測できない。
老人と目が合った。老人の顔はにこやかなので、瓦から挨拶しようとする。老人は笑顔のまま「キエイ!」と叫び槍で突いてきた。
槍の鋭さから冗談の一撃とは思えない。そこいらの老人の放つ攻撃の速度ではない。もちろん、寸止めの気配もない。
瓦はギリギリで回避できなかった。槍が髪に掠った。髪が切れて数本、パラリと落ちる。近年、暴走老人が社会問題になっている。遠い場所の出来事だと無関心だったが、違った。高齢者が起こす犯罪は身近にあった。
恐怖や戸惑いは瓦にはなかった。日本の未来には不安を覚えた。
「治安が不安視される世の中だけど、日本もここまで来たんだな。鉈、包丁、バット、ゴルフ・クラブは想像できるけど、町中で槍が振り回されるとは世の中は変わったな」
凶器として鉈、包丁、バット、ゴルフ・クラブが使用される理由はわかる。どれも、武器としても使えるが、本来の用途は別にある。使用される凶器が槍となると別だ。
槍は人を殺すための武器だ。老人はカッとなって身近にあった物を使用しているのではない。殺意を持って準備していた。
「老人に殺意がある。でも、老人が逮捕されて弁護士が付いたら殺意は否定するんだろうな。どう理論武装するかわからんけど」
瓦が槍から目を離さず、ゆっくり後退する。槍の間合いになるが、問題はない。戦うのなら悪手だが、逃げるのなら距離があったほうがいい。
老人からの連続攻撃はなかった。攻撃の意志は感じられるので油断は禁物。
老人の考えを予想する。
「初撃で敵を仕留め損なった。無暗な攻撃は反撃を受ける」と考える。ここまではいい。
だが、老人の動機はさっぱりわからない。
老人は静かに瓦に問うた。
「お前が、アバタールか?」
賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ。瓦は自分を愚者だと判断した。経験からいって、『いいえ』も『はい』も解決にならない。正解は二つ以外だ。
「待て、話せばわかる」
老人の顔が厳しくなり、声に気迫が籠る。
「問答無用!」
老人の出す空気はまるで、怒れる青年士官候補生のようだった。老人はここで一歩間合いを開ける。老人が槍を使うベストの距離を放棄したので瓦は呟く。
「風の構え・柳葉」
瓦の脱力と同時に、老人の槍が迫る。老人の槍は瓦の予測を超えて伸びる。槍の穂先が瓦の額に触れた。瓦の体は後方に一回転した。痛みは感じない。瓦による柳葉は槍の威力を完全に封じた。
逃げるなら今かな、と思ったが即座に放棄した。柳葉には弱点があるかもしれない。瓦のいる世界が2Dなら回避に死角はない。だが、現実は3Dだ。
柳葉の性能が回避系最高位なら全方向からの攻撃に対処可能。だが、第二位となると、効果があるのは正面を中心に二百七十度。第三位なら百二十度と有効範囲が狭まるのが最近のゲーム流行りだ。
回避性能が第二位以下なら背後からの槍の攻撃に柳葉は意味をなさない。逃げるとする。瓦の足が速くても瞬間でトップ・スピードにはならない。なったらなったで、足の筋肉なり、関節なり、が破壊されるかもしれないが、それは無視する。
瓦の足より老人が槍を突くスピードは速く、伸びる。仮に槍が届かなくても、槍は投擲が可能だ。背を向けた瞬間に真後ろから槍がくれば即死がある。正面から殴り合ったほうがいいのか。
瓦が近接戦を試みたが無駄だった。老人は槍を巧みに操り近寄らせない。槍が当たると回避できるが、おもうような位置取りができないので、距離感が保てない。とてもではない、拳の間合いにはできない。
一分の攻防で瓦は理解した。瓦の攻撃は届かず、老人の槍も瓦に傷付けられない。このままではいつまで経っても双方無傷だ。
「現状は俺に圧倒的に有利か」
無傷ではあるが決着はする。住宅街で槍を振り回して暴れたら、いずれ誰かが気付く。警察が来たら、瓦の勝ちである。瓦は武器を持たず、老人は槍を持っている。互いが無傷なら老人だけが逮捕される。
「市中の戦いならではの、素手の利点だ」
店の中から、作務衣を着た、若い女性が出てきた。年齢は瓦と同世代なので老人の孫かもしれない。新たな敵なら形勢は一気に逆転される。柳葉の性能が瓦の危惧した通りなら、柳葉は挟み撃ちに弱い。
若い女性は素手だった。若い女性は老人の背後から近づくが、老人は気にした様子がない。女性の手が振り上げる。瓦の目では追えない速さで若い女性の手が動いた。
次の瞬間、ドッサと老人が倒れた。
若い女性がしゃがんで優しく老人に語り掛ける。
「おじいちゃんたら、歳なんだから無理しないで。立ち眩みは危険よ」
女性が老人を一撃で倒したのだが、女性は老人の健康上の問題として処理するつもりだった。反論は難しい。女性の手が挙がったところまでは見えた。その後の動きは確認できていない。
万引きとて同じだ。商品を掴んだところまでの確認ではダメだ。隠したところを見ていないと現行犯では捕まえられない。同様のケースで万引きGメンが私人逮捕に踏み切ったとする。客から商品が出てこないと、客から訴えられる危険が出る。
女性の胸には「忍」とネームにあった。忍は瓦に微笑んだ。
「とりあえず、中へ入って、お話を聞かせてください」
立っていても事態は進展しない。瓦は店の中に入った。




