小さな傷
第九話です。
朝の支度を終えたあと、私は侍女に手を引かれながら廊下を歩いていた。まだ一人では上手く歩けないから、いつもこうして支えてもらっている。
隣では、アリアが静かな足取りで歩いている。
私はちらりとその横顔を見た。
アリアはもう、一人で歩ける。
言葉だって、私よりずっと上手だった。
前世では、こんなこと簡単にできていたはずなのに。
「……ひとりで、あるく」
気づけば、そんな言葉が口から零れていた。侍女が困ったように目を瞬かせる。
「ですが、リリア様……」
「あるく」
もう一度言うと、侍女はどうしたものかというようにアリアを見た。
アリアは少しだけ黙っていた。紫色の瞳が、こちらを見る。
「……少しだけなら、いいわ」
小さな声だった。
侍女はまだ不安そうだったけれど、やがてそっと手を離す。
「無理はなさらないでくださいね」
「ん」
私は小さく頷き、床へ足を下ろす。
一歩。
それから、もう一歩。
少しだけふらついたけれど、ちゃんと歩けていた。
「すごいです、リリア様」
侍女が嬉しそうに笑う。
私はなんだか少しだけ得意な気持ちになって、もう一歩前へ出た。
そのとき、足がもつれた。
「……っ」
身体がぐらりと傾き、鈍い音が響いた。
床へついた手がじんと痛む。
私はきょとんとしたまま、自分の手を見た。白い指先に、赤い線が滲んでいる。
「リリア!」
鋭い声だった。
はっと顔を上げる。
気づけば、アリアがすぐそばまで駆け寄ってきていた。
「見せて」
その声が、少し震えていた。
私はぱちぱちと瞬きをする。
「……へいき」
そう言いながら手を引っ込めようとしたけれど、アリアはそれより早く私の手を取った。細い指が、そっと私の手を包む。
その指先が、少し冷たかった。
アリアは黙ったまま、傷を見つめている。
赤く擦りむけた指先。ほんの小さな傷だった。
「アリア様、このくらいでしたらすぐに——」
侍女が慌てて口を開く。けれど、アリアは顔を上げなかった。
「消毒を」
静かで、どこか張り詰めている声だった。
「すぐにお持ちします」
侍女が急いでその場を離れていく。
私はなんだか不思議になって、アリアを見上げた。
「……アリア?」
呼びかけると、アリアの肩が小さく揺れた。
まるで、今やっと声が聞こえたみたいに。
「痛い?」
低い声だった。
「……ちょっと」
正直に答えると、アリアが目をぎゅっと強く瞑り、唇がわずかに震えていた。
「ごめんなさい」
ぽつりと落ちた声に、私は目を丸くする。
「……なんで?」
思わず聞き返す。
転んだのは私だ。
アリアは何も悪くないのに。
けれどアリアは何も答えなかった。ただ、私の手を握る指だけが、少し強くなる。
「どうした?」
不意に声が落ちてくる。
顔を上げると、そこにはアルベールが立っていた。
どうやら剣の稽古へ向かう途中だったらしい。軽い訓練着姿のまま、こちらを見下ろしている。
「何があった?」
アルベールが近づいてくる。
侍女が慌てて頭を下げた。
「申し訳ございません。リリア様が少し転ばれて——」
「転んだ?」
アルベールの視線が私の手へ落ち、指先の赤い傷を見て、小さく眉を寄せた。
「結構痛そうだな」
「……ちょっと」
そう答えると、アルベールが苦笑する。
「無茶したのか?」
私は少しだけ黙る。
「……ひとりで、あるきたかった」
そう言うと、アルベールは一瞬きょとんとしたあと、小さく笑った。
「そっか」
怒られるかと思ったのに、その声は優しかった。
「でも、無理はするなよ」
そう言って、アルベールが私の頭を軽く撫でる。
私はぱちりと瞬きをした。
その隣で、アリアはずっと私の手を握り、黙ったままだった。
アルベールがちらりとアリアを見る。
「アリア?」
呼ばれて、アリアがはっとしたように顔を上げた。
「……何でしょう、お兄様」
「お前、顔色悪いぞ」
その言葉に、私は思わずアリアを見る。言われてみれば、少し青い気がした。
「別に、なんでもありません」
その声は少し硬かった。
アルベールは何か言いたげに目を細めたが、結局、何も言わなかった。
その時、侍女が小さな箱を持って戻ってくる。
「消毒薬をお持ちしました」
アルベールが受け取ろうと手を伸ばす。けれど、その前にアリアが口を開いた。
「……わたくしがやります」
侍女が目を瞬かせる。
「ですが、アリア様——」
「いいから」
いつもより少しだけ強い声だった。
侍女たちが息を呑んだ。
アリアはそっと箱を受け取ると、私の前にしゃがみこんだ。
「手を出して」
私は言われるまま、小さく手を伸ばす。アリアの指先が、私の手へ触れた。
まだ少し冷たい。
消毒液が傷に触れた瞬間、ぴりっと痛みが走る。
「……っ」
思わず肩が揺れる。
「ごめんなさい」
アリアがすぐにそう言った。
「……アリアのせい、じゃないよ?」
そう言うと、アリアの手が止まった。
長い睫毛が、小さく揺れる。
しばらくして、アリアはゆっくり目を伏せた。
「……そうね」
アリアは目を伏せたまま、もうこちらを見なかった。
読んでくださってありがとうございます。
ほんの小さな怪我なのに、アリアだけが必要以上に怯えている——そんな違和感を書きたかった回でした。
少しずつ変わっていく二人の関係を、楽しんでいただけたら嬉しいです。




