もう痛くないのに
第十話です。
消毒を終えた頃、廊下の向こうから足音が聞こえてきた。
「リリアが怪我をしたと聞いたけれど」
柔らかな声だった。
顔を上げると、そこには母が立っていた。
淡い色のドレスを纏ったその姿は、いつ見ても綺麗だった。
「お母様」
アリアが静かに頭を下げる。
母は小さく頷いてから、私の前へしゃがみこんだ。
「大丈夫?」
「……へいき」
そう答えると、母は困ったように微笑む。
「本当に?」
細い指が、そっと私の手を覗き込む。
「あら」
母は小さく目を細めた。
「擦りむいてしまったのね」
その声は穏やかだった。
まるで、本当に小さな怪我だと言うみたいに。
「転んでしまわれて」
侍女が申し訳なさそうに口を開く。
「ですが、傷は浅いのでご安心ください」
「そう」
母は小さく頷いた。
「ならよかったわ」
私はなんとなくアリアを見る。
アリアはまだ、私の手を握ったままだった。
少し冷たい指先。
「アリア?」
母が不思議そうに娘を見る。
「あなたまでそんな顔をしなくても大丈夫よ」
その言葉に、アリアの肩がわずかに揺れた。
「……別に。大した怪我ではありませんから」
静かな声だった。
けれど、その手は離れない。握られた指先に、少しだけ力が入る。
母は小さく目を丸くしたあと、ふっと微笑んだ。
「心配してくれていたのね。ありがとう」
一瞬、空気が止まった気がした。
私はぱちりと瞬きをする。
アリアは何も言わなかった。
ただ、長い睫毛がわずかに伏せられる。
「……そういうわけでは」
ぽつりと落ちた声は、なぜだか少し掠れていた。
母は気づいていないのか、優しく笑う。
「ふふ。でも、心配していたのでしょう?」
アリアは答えない。
その横顔を見ながら、私はなんとなく胸の奥が落ち着かなかった。
だって、傷はもうほとんど痛くない。
なのにアリアだけが、何かを失いかけたみたいな顔をしていた。
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