兄妹
第五話です。
少しずつ、屋敷の中の空気が見えてきた気がします。
次の日の午後、屋敷の中はいつもより少し騒がしかった。
使用人たちが慌ただしく廊下を行き交っている。磨かれた床に靴音が反響して、その落ち着かない空気が部屋の中まで流れ込んできていた。
私はソファの上で絵本を開きながら、ぼんやりその様子を眺める。
「……なにか、あるの?」
たどたどしく尋ねると、近くにいた侍女がやわらかく微笑んだ。
「アルベール様がお戻りになったのですよ」
その言葉に、私はぱちりと瞬きをした。
アルベール・ディ・アヴェーヌ。
アヴェーヌ公爵家の長男。そして、“あの物語”の攻略対象の一人。
数日間、祖父の屋敷へ行っていたらしい。
私は無意識に隣を見る。
アリアは静かに紅茶を飲んでいた。
表情はいつも通りだった。けれど、カップを持つ指先がほんのわずかに止まった気がして、胸の奥がざわつく。
小説の中のアルベールは、穏やかで優しかった。だからこそ、アリアへ向けられる冷たさが怖かった。
アリアに関心を持たずに、距離を置いていって、最後には、話しかけても無視するようになる。
そしてアリアは1人で破滅していく。
「ただいま!」
明るい声が響き、私ははっと顔を上げた。
部屋へ入ってきた少年を見て、思わず息を呑む。
柔らかな金髪。
青灰色の瞳。
まだ幼さの残る顔立ちなのに、驚くほど整っている。
——ああ、この人がアルベールか。
「リリア、アリア」
アルベールは嬉しそうに笑いながら私たちの前へ歩いてくる。
そのまま目線を合わせるようにしゃがみこんだ。
「いい子にしてたか?」
「……ん」
私が頷くと、アルベールは小さく笑った。
「そっか」
その声は優しかった。
思わず戸惑う。
本当にこの人がアリアを追い詰めるの?
そんなことを考えていると、不意にアルベールがアリアへ視線を向けた。
「アリアは?」
その瞬間だった。
空気がぴんと張った気がした。
私は思わず隣を見る。
アリアはいつも通り静かな顔をしていた。けれど、その肩がほんのわずかに強張る。
まるで、痛みを待つみたいに。
背筋がひやりとした。
「……おかえりなさい、お兄様」
静かな声だった。
アルベールは気づかなかったのか、いつもの調子で笑う。
「なんだ、元気ないな?」
そう言って、アリアの頭へ手を伸ばした。
その瞬間、アリアの身体がわずかに引く。
本当に、一瞬だけ。でも私は見てしまった。
まるで、触れられることを怖がったみたいだった。
胸がぎゅっと絞めつけられる。
どうして。
どうして、お兄様はこんなにも優しいのに。
アルベールは気づかなかったようで、そのままアリアの頭を軽く撫でた。
「ちゃんといい子にしてたか?」
「……ええ」
アリアは静かに頷く。
いつも通りの声。でも、その横顔はどこか張りつめて見えた。
まるで壊れないように、必死で耐えているみたいに。
私は無意識に手を握りしめた。
優しく撫でられているのに。
笑いかけられているのに。
それでも、怖がっている。
「リリア?」
名前を呼ばれ、はっと顔を上げる。
アルベールが不思議そうにこちらを見ていた。
「どうした?」
「……なんでも、ない」
うまく言葉が出てこない。
するとアルベールは少し困ったように笑った。
「変なやつだな」
その声はやっぱり優しかった。
だから余計に苦しかった。
もしこの優しさが、いつか消え、冷たくなってしまうのだとしたら。
もしアリアが、そのたびに傷ついてきたのだとしたら。
「そうだ」
アルベールがふと思い出したように声を上げた。
「二人にお土産がある」
私は思わず顔を上げる。
「……おみやげ?」
「うん」
アルベールは後ろにいた使用人から、小さな箱を受け取った。淡い色のリボンが結ばれている。
その箱を見た瞬間、アリアの指先がわずかに強張った。
私は息を止める。
「開けてみるか?」
アルベールが笑いながら箱を差し出す。
私はそっと受け取った。
小さな箱は思っていたより軽い。
「……あける」
「うん」
頷かれて、私は慎重にリボンへ触れた。
でも指先がうまく動かない。
結び目を引っぱってみても、なかなかほどけなくて、私はむっと眉を寄せる。
すると隣から小さな手が伸びてきた。
「貸して」
アリアだった。
するりと紐を解く指先は、驚くほど慣れている。
私は思わずその横顔を見つめた。
アリアは本当に凄いな。
そんなことを考えている間に、箱が開いた。
「……わあ」
中には、小さな硝子細工が入っていた。
花の形をしている。
淡い青色の花弁が、窓から差し込む光を受けてきらきら揺れていた。
「きれい……」
思わず呟く。
アルベールが少し得意そうに笑った。
「祖父上の屋敷の近くで売ってたんだ」
私はそっと硝子の花へ触れる。
ひんやりしていた。
「アリアのは紫だ」
アルベールがもう一つの箱を差し出す。
アリアは少しだけ間を置いてから、それを受け取った。まるで、一瞬だけ迷ったみたいに。
「……ありがとうございます」
静かな声だった。綺麗な笑みを浮かべている。
でも、箱を持つ指先には微かに力が入っていた。
私はその横顔を見る。
どうしてそんな顔をするんだろう。
お兄様は優しい。
プレゼントまでくれる。それなのに、アリアの指先はずっと強張ったままだった。
むしろ、怯えているように見えた。
胸の奥がざわざわする。
もしかしたらアリアは、優しくされるたびに怖くなるのだろうか。
——いつか失うと知っているから。
そんな考えが浮かんでしまって、頭をふった。
——私みたいにアリアが未来を知ってるわけないでしょ。
私はぎゅっと硝子の花を握りしめる。ひんやりした感触が、指先に残った。
その冷たさが、なぜだか忘れられなかった。
読んでくださってありがとうございます。
今回はアルベール初登場回でした。
優しいはずなのに、どこか落ち着かない——そんな空気を書きたくて書いた話です。
少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。




