120.名乗ることで互いの距離を測る
カフェは賑わっていた。平民から貴族まで、幅広い客層がいる。貴族のほとんどは個室を使うようで、奥へ消えていった。リエラ侯爵の侍従が先に話を通したらしく、すんなりと奥の個室へ案内される。危険は感じなかった。
丸テーブルに腰かけ、少しだけベスのほうへ椅子を寄せる。向かいに腰かけたリエラ侯爵は、メニューの書かれた紙を差し出した。先に注文して、ゆっくり話すつもりのようだ。さっと目を通し、紅茶とケーキを二種頼んだ。紅茶の種類も別にしておく。
ハーブティとレモンを添えた紅茶、チーズケーキとタルトが運ばれた。リエラ侯爵は珈琲に、ほんの少し砂糖を入れる。まずは彼が一口、応じる形で私とベスが口をつけた。フルーツたっぷりのタルトからイチゴを選んで食べ、ベスが頬を緩める。
「お兄様、美味しいわ」
「そうか。よかった」
微笑ましい兄妹の会話が落ち着いたところで、リエラ侯爵が口を開いた。
「まずフィトの保護に感謝とお礼を」
穏やかな口調で挨拶を続ける。
「先ほども名乗ったが、リエラ侯爵家当主ガスパルだ。お二人の名を伺っても構わないか?」
「ウルティア総領家長子、アリスと申します。国外ですので、愛称で名乗る無礼をお許しください」
相手は侯爵家の当主で、騎士団長だ。国の重職に就く者へ名乗るなら、本来は「ベアトリス」と名乗るのが正しかった。しかし、それでは女性名だと公表することになる。アリスもぎりぎりだが、愛称だと告げれば理解されるはずだ。
一族の名である程度察したのか、ガスパルは深く追求しなかった。家督を継ぐ予定のある者、一定以上の地位にある者は、国外での危険を避けるため通称や愛称で名乗る。ほぼすべての国で共通の習わしであり、彼も納得したのだろう。
「同じく、ウルティア総領家のベスですわ」
微笑んだベスもシルベストレの名を告げなかった。どちらが跡取りかわからない形で名乗り、相手に主導権を委ねる。その反応によっては、これからの対応を考える必要があった。
「そこまで用心しなくていい。私に君たちを害する気はないし、愛馬に関するお礼を言いたいだけだ」
珈琲に口をつけ、少しだけ表情が曇る。それから砂糖をもう少しだけ足した。遠慮なくタルトを平らげ、チーズケーキに取り掛かるベスは会話に加わる気はないようだ。ここからガスパルの愛馬である黒鹿毛のフィトの話が始まった。
おおよその事前情報や予測とかけ離れた話ではない。盗賊との戦いで乱戦となり、何頭もの軍馬が奪われた。騎士達の愛馬を預かった新人騎士は、半数が手傷を負った。残り半数は命を散らしたらしい。激しい戦闘で失われた損失は大きく、しばらく盗賊退治が行われなかったとか。
「まさか無事で、この手に戻ってきてくれるとは……」
言葉を詰まらせるガスパルの姿は、胸に来るものがあった。もし同じ立場で奪われたモニカが無事に戻ったら、私なら泣くだろう。隣のベスの様子を窺えば、こっそり涙を拭っていた。




