第ニ話 変わる思い
ある夏の夜会だった。
セオドアが、若い令嬢に囲まれていた。
こんなのはいつものこと。
彼は見目も家柄も申し分なく、社交界で彼に関心を寄せる令嬢は多い。
わかっていた。
わかっていたのに、彼がその令嬢に微笑んだ瞬間、胸の奥が小さく痛んだ。
その夜から、私は彼が他の令嬢に微笑むところを長く見ていられない。
彼が誰にでも優しいことは知っている。
その優しさに救われたのも私。
だからこそ、胸が痛む理由に気づいた時、私は自分を少しだけ嫌いになった。
そしてそんな気持ちとは裏腹に、私はセオドアを好きになってしまった。
それは困ったことだった。
私が困るのではない。
きっと彼が困る。
彼はこれを、寂しさを埋めるための関係として始めたつもりでいるはず。
感情を持ち込む気はないと、言葉ではなく態度で示し続けていた。
だから、私が彼を好きになってしまったのは、きっとルール違反。
言えるはずがない。
言ったら終わる。
この歪で、不完全で、名前のない関係さえ失ってしまう。
歪だとわかっていても、手放したくなかった。
だから黙っていた。
笑って、彼の隣に座って、翌朝には何事もなかったように手を振った。
ずっと、ずっと、黙っていた。
春が巡ってきた頃、父が縁談の話を持ってきた。
相手は伯爵令息だった。
穏やかで、誠実な人物だという。
父は良い話だと思っているようだった。
「お前も、そろそろ先のことを考えた方がいい」
父は責めるようには言わなかった。
むしろ、私を案じてくれていた。
カルロスとの婚約が壊れてから、父は私に何かを強いることはなかった。
けれど侯爵令嬢である以上、いつまでもこのままではいられない。
それは私自身が、一番よくわかっていた。
その夜、私は一人で長く考えた。
このままセオドアの隣にいても、何も変わらない。
自分だけが好きで、自分だけが傷ついて、やがて彼も誰かと婚約する日が来る。
アシュフォード公爵家の嫡男が、いつまでも身を固めないはずがない。
その日が来たら、私はどうするのだろう。
彼の婚約者に微笑むのか。
おめでとうございます、と言うのか。
それからまた、何事もなかったように一人で眠るのか。
無理だと思った。
ならば、自分から終わらせた方が傷は浅いのではないか。
そう思った。
父の縁談は断った。
相手に失礼なことはしたくなかったし、誰かを利用して結婚する気にもなれなかった。
けれど、その話を使うことにした。
セオドアに「婚約することになった」と嘘をつく。
そうすれば、自然に終わらせられる。
傷ついた顔も、本音も、見せずに済む。
最後ぐらい、きれいに終わりたかった。
良い思い出でしたね、と。
あなたと過ごした時間は楽しかった、と。
笑って、別れたかった。
本当に笑えるかどうかは、わからなかったけれど。
自分でも気づいていた。
これは逃げだ。
けれど、他にどうしろというのだろう。
彼に好きだと言う勇気は、どうしても出なかった。
伝えたのは、それから数日後の午後のこと。
セオドアの書斎。
本が壁一面に並んだ、彼らしい静かな部屋。
何度もここで話をした。
何度もここで、彼に抱きしめられた。
いつものように向かいのソファに座って、私は切り出した。
「婚約することになりましたの」
一瞬の間があった。
セオドアは私の顔を見ていた。
読めない瞳で。
「……そうか」
いつもと変わらない声色。
けれど、その手が紅茶のカップに伸びないことに、私は気づいてしまった。
彼はただ、カップの縁に指を添えたまま、私を見ていた。
「相手はどんな人だ」
「穏やかで、誠実な方ですわ」
「幸せになれそうか」
「……ええ」
嘘だった。
全部、嘘だった。
胸が締めつけられて、私は誤魔化すように窓の外へ目を向けた。
「なら、良かった」
セオドアはそう言って、ようやく紅茶のカップを持ち上げた。
けれど口はつけなかった。
それでも私は思った。
やはり、何も感じていないのだと。
やはり、私の一方的な思いだったのだと。
「せっかくだから、最後に食事でもどうだ」
セオドアの声がした。
「お祝いをさせてくれ」
「……お祝い、ですか」
「君と食事をするのも、最後になる。良ければ」
思ってもいなかった言葉。
断るべきなのに。
ここで頷けば、余計に苦しくなる。
これ以上優しくされたら、きっと笑って終われなくなる。
わかっていたのに、最後だと思うと断れなかった。
「……ええ。喜んで」
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