第一話 初めての夜
「君との婚約を破棄することにした」
それは相談ではなく、すでに決定された事柄として告げられた。
その日、私――エレノア・ヴィンセント侯爵令嬢の未来は、あっけなく壊れた。
相手はカルロス・ハーヴェイ侯爵令息。
幼い頃から決められていた、同じ侯爵家同士の縁談だった。
私はそれなりに彼を好いていたし、これが自分の未来なのだと信じていた。
大恋愛ではなかったかもしれない。
けれど、穏やかに寄り添っていけるのだと思っていた。
だが彼は、あっさりと言った。
「君とは気が合わないと気づいた」
それだけだった。
理由にもならない理由を残して、カルロスは別の令嬢のもとへ去っていった。
謝罪の言葉も、迷いも、未練もなかった。
傷つけばいいのか、怒ればいいのか、よくわからなかった。
泣き崩れるほど愛していたわけではない。
けれど、幼い頃から当たり前のように隣にあった未来が、突然目の前から取り上げられた。
その空白を、私はどう扱えばいいのかわからなかった。
夜が来るたびに、胸の中に穴が空いていくようだった。
寂しかった。
ただ、ひたすらに寂しかった。
そんな夜に偶然出会ったのが、セオドア・アシュフォード公爵令息だった。
社交の場では何度か顔を合わせていた。
金色に近い茶の髪、切れ長の青い瞳。
見目も麗しく、いつも令嬢に囲まれている男。
それだけで特別な印象はなかった。
その夜、王都郊外の庭園パーティーで、私はこっそり人気のない噴水の脇に座り込んでいた。
音楽も、笑い声も、グラスの触れ合う音も遠かった。
みんなが同じ世界で楽しそうにしているのに、自分だけがその外側にいるような気がした。
「こんなところで、一人で何を?」
顔を上げると、セオドアが立っていた。
手にはシャンパンのグラスが二つある。
「……あなたこそ」
「探し物をしていた」
彼はさらりとそう言って、グラスを一つ差し出した。
「よければ」
「なぜ私に?」
「他に飲んでくれそうな人がいなかった」
素っ気ない理由だった。
けれど気がつけば、私はそのグラスを受け取っていた。
シャンパンの泡が月明かりにきらきらと光っている。
しばらく二人は黙って並んで座っていた。
妙な沈黙だった。
けれど、不思議と苦ではなかった。
「婚約が解消されたそうだね」
「……ずいぶんと直接的ですこと」
「遠回しにしても意味がない」
セオドアは淡々と言った。
「傷ついているか?」
「…………少し」
「そうか」
それだけだった。
同情もしない。
慰めもしない。
軽々しく、忘れろとも言わない。
ただ黙って、隣でシャンパンを飲んでいた。
なぜだろう。
その沈黙に、私は少しだけ救われた。
その夜のことを、私は後に何度も思い返すことになる。
私たちが一線を越えたのは、それから一ヶ月後のこと。
大した理由はなかった。
また別の夜会で顔を合わせた。
また二人で人気のない場所へ流れ着いた。
酒が入っていて、月が綺麗で、私は少し泣いていた。
セオドアが「泣くな」と言って、手を伸ばしてきた。
その手を、私は拒めなかった。
翌朝、薄い朝の光が差し込む部屋で、セオドアは静かに言った。
「続けるかどうかは、エレノアが決めればいい」
感情のない声だった。
まるで契約の話をするような声。
それが優しさなのか、距離なのか、その時の私にはわからなかった。
ただ、その時は寂しさを埋めるためのものだと思っていた。
だから、それで構わないと思った。
それが二年続くとは、思ってもいなかった。
その日を境に、月に二、三度、私たちは会うようになった。
場所は、主にセオドアの別邸だった。
王都の中心から少し外れた、古い庭付きの館。
馬車はいつも裏門に着けられ、私の侍女だけが行き先を知っていた。
正式な婚約者でもない男性のもとへ、夜に足を運ぶ。
それが何を意味するのか、わからないほど子供ではなかった。
噂になれば、私の評判は落ちる。
セオドアにも傷がつく。
ヴィンセント家も、アシュフォード家も、無傷では済まない。
だから私たちは慎重だった。
夜会で言葉を交わす時は、ただの知人のように振る舞った。
視線を重ねすぎない。
名前を呼びすぎない。
隣に立つ時間を長くしない。
そして夜が深くなる頃、誰にも気づかれないように、別々の馬車で同じ場所へ向かった。
深い話をするわけではない。
夕食を共にして、ワインを飲む。
互いの近況を少し話す。
それから夜を共にし、翌朝には何事もなかったように別れた。
セオドアはいつも同じだった。
穏やかで、静かで、必要以上に踏み込まない。
私が嫌がることや、傷つけるようなことは一度も言わなかった。
壊れ物に触れるように、優しくしてくれた。
けれど、その優しさが「女性への礼儀」なのか、「私だから」なのかはわからなかった。
彼はどんな時も、私に選ばせた。
今夜、泊まるか。
帰るか。
会うか。
会わないか。
続けるか。
終わらせるか。
その選択を、彼は一度も奪わなかった。
だからこそ、私は時々苦しくなる。
優しい人なのだと思った。
とても、ひどいくらいに優しい人なのだと。
いつからだろう。
彼の笑顔が見たくなったのは。
誰にでも見せる整った微笑みではなく、私の前でだけほんの少し気の抜けた顔をする、その一瞬を心の中で大切にするようになったのは。
彼が帰り際、必ず玄関まで送ってくれること。
馬車に乗るまで、黙ってそばにいること。
寒い夜には、私が何も言わなくても外套を肩にかけてくれること。
そんな些細なことを、私は一つずつ覚えていった。
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