第9話「穏やかな領地に忍び寄る影」
空を覆っていた厚い雲の層が徐々に薄れ、北の辺境にも春の足音が少しずつ近づき始めていた。
日中の気温が微かに上がり、屋根に積もった雪が溶けて軒先から冷たい雫となって規則正しい音を立てて落ちている。
ルカの開墾した畑は当初の数倍の広さにまで拡大し、今では城で働く使用人たちも空き時間を利用して農作業を手伝うようになっていた。
黒い土の表面には無数の緑色の芽が規則正しく顔を出し、太陽の光を浴びて日ごとにその葉を大きく広げている。
ルカは手編みの籠を腕に下げ、城下にある小さな集落へと足を運んでいた。
石と木材で組まれた簡素な家屋が身を寄せ合うように建ち並ぶ村の広場に、ルカの姿を見つけた領民たちが次々と集まってくる。
「奥方様、今日も来てくださったのですね」
粗末な衣服に身を包んだ年配の女性が、深く刻まれた顔のシワをほころばせてルカに近づいてきた。
ルカは籠の中から、温室に見立てて城内で育てた瑞々しい葉野菜を取り出し、女性の荒れた手のひらにそっと乗せる。
「少しですが、今朝収穫したものです。スープに入れて温まってください」
「ありがとうございます。奥方様のおかげで、今年の冬は子供たちがひもじい思いをせずに済んでいます」
女性の背後からは、泥だらけになった子供たちが駆け寄ってきて、ルカの足元で大人しく座っているシロの分厚い毛皮に楽しそうにしがみついている。
かつては人間に恐れられていた巨大な聖獣も、今では村の子供たちの良き遊び相手として完全に受け入れられていた。
シロは子供たちの体重をものともせず、気持ちよさそうに喉を鳴らして目を細めている。
領民たちの顔には、厳しい冬の寒さに耐えるだけの暗い表情はもうない。
ルカがもたらした新しい作物の知識と、土に触れて共に汗を流すという行為そのものが、人々の心に確かな希望の光を灯していた。
冷たい風の中に混じる湿った土の匂いを胸いっぱいに吸い込み、ルカは自然とこぼれる笑顔で領民たちとの穏やかな時間を過ごしていた。
その時、村へと続く一本道の方角から、空気を切り裂くような切羽詰まった馬のひづめの音が響いてきた。
***
蹄の音は急速に近づき、やがて広場の入り口に1頭の黒馬が荒々しく乗り込んできた。
馬の首元や腹の周囲には白い泡がびっしりと吹き出し、体表から立ち上る汗が冷たい空気に触れて瞬時に白い霧となっている。
限界まで走り続けてきたことは、その激しく上下する馬のあばら骨の動きを見れば誰の目にも明らかだった。
背中にまたがっていた伝令の兵士は、馬の歩みが止まると同時に転げ落ちるようにして地面に膝をついた。
「レ、レオン辺境伯様は……城におられるか!」
息も絶え絶えの兵士の声に、広場を包んでいた穏やかな空気は一瞬にして凍りついた。
ルカは籠を落とし、慌てて兵士の元へと駆け寄る。
「レオン様なら執務室にいらっしゃいます。どうしたのですか、そのひどい怪我は」
ルカが兵士の肩を支えると、分厚い革鎧の隙間からどす黒い血が滲み出ているのが見えた。
兵士はルカの顔を見ると、震える手で懐から血に染まった羊皮紙の筒を取り出す。
その表面には、王家直属の機関であることを示す赤い蝋の封印が押されていた。
「南の山脈から、飢えた魔獣の群れが……数十という規模で、この領地に向かって南下してきています……!」
兵士の絶望的な叫び声が、冷たい風に乗って村中に響き渡った。
「さらに、王都からの査察官を名乗る一行が……魔獣の群れに追われる形で、この城へ向かっています。早く、迎撃の準備を……」
兵士はそこまで言い終えると、完全に意識を失って雪の上に倒れ込んだ。
ルカの全身の血の気が一気に引き、指先から急速に体温が失われていくのを感じる。
魔獣の群れ。それは、北の厳しい自然の中でも最も恐るべき脅威だ。
冬の飢えで狂暴化した魔獣は、目につくすべての命を食い尽くすまで決して止まることはない。
そして、こんな最悪の時期に王都から派遣されてきた査察官の存在。
レオンを失脚させようと企む王都の貴族たちが、わざとこの危険な時期を狙って人員を送り込んできたことは想像に難くなかった。
『せっかく、みんなが笑顔になれる場所になったのに』
ルカは足元の黒い土と、そこで怯えるように身を寄せ合う領民たちを見つめる。
背後で、シロが危険を察知して低いうなり声を上げ、その黄金色の瞳を山脈の方角へと鋭く向けた。
平和な眠りから覚めたような領地の穏やかな日常は、突如として持ち込まれた悪意と暴力の影によって、無惨にも引き裂かれようとしていた。




