第8話「氷解する冷たい瞳」
ルカは小さな木の鉢に土を移し、そこに発芽したばかりの幼い苗を1つだけ慎重に植え替えた。
両手でその鉢を包み込むようにして持ち、ルカは冷たい石の回廊を足早に進んでいく。
向かう先は、レオンが日中の大半を過ごしている執務室だった。
分厚い木の扉の前に到着すると、ルカは1度立ち止まり、深く息を吸い込んで自身の呼吸を整える。
心臓が肋骨を内側から叩きつけるような感覚を覚えながらも、右手の関節で硬い木材の表面を3度ノックした。
「入れ」
扉の向こうから、低く重みのある声が響く。
ルカは金属の取っを押し下げ、重い扉をゆっくりと開いた。
執務室の空気は外と変わらないほど冷え切っており、暖炉の火は燃えているものの、広い部屋を暖めるには到底足りていない。
部屋の中央に置かれた巨大なマホガニーの机に向かい、レオンは山積みにされた羊皮紙の書類に羽ペンを走らせていた。
ルカの足音に気づいて顔を上げたレオンの灰色の瞳には、突然の訪問者に対する微かな戸惑いの色が浮かんでいる。
「ルカか。どうした、何か不足なものでもあるのか」
レオンは手に持っていた羽ペンをインク壺の横に置き、背もたれに深く身体を預けた。
「いえ、そうではありません。レオン様に、どうしても見ていただきたいものがあって」
ルカは両手に抱えていた木の鉢を、レオンの机の端に静かに置いた。
机の上の無骨な書類や鈍く光る剣の隣で、その小さな緑色の葉はひときわ異彩を放っている。
レオンは怪訝そうな表情を浮かべたまま、椅子から立ち上がって鉢の前に歩み寄った。
「これは、なんだ」
低くつぶやくレオンの声には、隠しきれない驚きが混じっている。
「私が持ってきた種から芽が出たんです。この北の冷たい土でも、野菜は育つことが証明できました」
ルカはしっかりとレオンの顔を見上げ、熱を帯びた声で言葉を紡いだ。
「これからもっと畑を広げていけば、冬の間の領民たちの食糧不足も、少しは改善できるはずです」
レオンは無言のまま、机の上に置かれた小さな緑の生命を見つめ続けている。
過去の裏切りや王都の貴族たちの汚い権力闘争に巻き込まれ、誰も信じずにただ一人で領地を守り抜いてきた孤独な男。
その氷のように冷たく固く閉ざされていた瞳の奥で、何かが静かに溶け出していくような揺らぎが生まれたのを、ルカは確実に見逃さなかった。
レオンは分厚く傷だらけの大きな右手をゆっくりと持ち上げ、その小さな葉の先に向かって伸ばす。
剣を振るうことしか知らなかった武骨な指先が、壊れ物を扱うような極限の優しさで、柔らかな緑の表面にそっと触れた。
「これを、お前が自分の手で育てたというのか」
レオンの声は普段の威圧感が完全に消え失せ、微かに震えているようにさえ聞こえた。
「はい。シロにもたくさん手伝ってもらいましたけれど」
ルカがはにかむように微笑むと、レオンは短く息を吐き出し、ルカの顔へと視線を移す。
いつもならすぐに目をそらすレオンが、その時はルカの瞳を捉えて離さなかった。
沈黙の時間が執務室を満たし、暖炉の薪がはぜる乾いた音だけが2人の間に響き渡る。
「……夕食の時間にはまだ早いが、食堂へ行くぞ」
不意にレオンが視線を外し、背を向けたまま短く告げた。
「えっ、でもお仕事が」
「構わない。お前も、ずっと外に出ていて身体が冷えているだろう」
そう言い残し、レオンは大股で執務室の出口へと向かっていく。
ルカは机の上の鉢を急いで抱え直し、レオンの広い背中を追いかけて部屋を後にした。
***
食堂の長いテーブルに、湯気を立てる熱いスープと焼きたての柔らかいパンが並べられた。
いつものようにテーブルの端と端に座るのではなく、レオンはルカのすぐ隣の椅子を引き、自らそこへ腰を下ろした。
突然物理的な距離が縮まったことにルカは肩を跳ねさせたが、不思議と恐怖や圧迫感は感じない。
隣に座るレオンの大きな身体から伝わってくるのは、冬の森のような静寂と、焚き火のような確かな温もりだった。
ルカはスプーンを手に取り、温かいスープをすする。
塩味の効いた肉の出汁が、冷え切っていた胃袋の奥底へとじんわりと染み渡っていく。
「ルカ」
不意に名前を呼ばれ、ルカは驚いて横を向く。
レオンは正面の壁を見つめたまま、静かな声で言葉を紡ぎ始めた。
「私はこれまで、剣で外敵を退けることしか考えてこなかった。領民を飢えから救うためには、春を待つしかないと諦めていた」
レオンの横顔には、長年背負ってきた重い責任と、自身の無力さに対する後悔の色が深く刻まれている。
「だが、お前はこの凍りついた土から命を芽吹かせた。お前のその手は、私が持っていない力を持っている」
レオンはゆっくりと顔を向け、ルカの右手を自身の手でそっと包み込んだ。
剣ダコだらけの固い手のひらから、ルカの華奢な手へと確かな熱が流れ込んでくる。
「ありがとう。この領地のために、お前が来てくれて本当によかった」
それは、冷酷無比と恐れられる辺境伯の口から出たとは思えない、あまりにも素直で不器用な感謝の言葉だった。
ルカの胸の奥底から、熱い塊が喉元まで込み上げてくる。
握られた手から伝わる体温が心地よく、ルカは涙をこぼさないように必死にまばたきを繰り返した。
外の寒さを忘れさせるほどの温かな空気が、広い食堂の中を静かに満たしていた。




