第7話「白き聖獣の助けと芽吹く緑」
石造りの天井から降り注ぐ朝の冷気が、ルカの頬を鋭く撫でていった。
分厚い獣の毛皮で作られた掛け布団の隙間から、ルカはゆっくりと両手を引き抜く。
昨晩レオンから受け取った陶器の壺に入っていた薬草の軟膏は、驚くほどの効能を発揮していた。
あかぎれで皮が裂け、血が滲んでいた手のひらの傷口は完全に塞がり、赤く腫れ上がっていた熱もすっかりと引いている。
指先を曲げ伸ばしても、皮膚が引きつるような鋭い痛みはもう走らない。
薬草特有の鼻に抜けるような青臭い香りが、まだ微かに指先から漂っていた。
ルカはベッドから身を起こし、床に置かれた羊毛の厚手の靴下に足を通す。
冷え切った木の床の感触は分厚い布地を通してなお冷たく、北の地の冬が依然として牙を剥いていることを足の裏から伝えてきた。
麻のシャツの上に保温性の高い起毛の服を重ね着し、さらにその上から丈夫な革の外套をしっかりと羽織る。
首元には冷風の侵入を防ぐための厚手の布を何重にも巻きつけ、最後に修復された革手袋を両手にはめた。
準備を整えたルカは私室の重い木の扉を開け、まだ薄暗い城の回廊へと歩みを進める。
壁に等間隔で設置された燭台の炎が、吹き抜ける隙間風に揺られて壁面に長い影を踊らせていた。
靴底が石の床を叩く硬質な音が、静寂に包まれた高い天井に反響して遠くまで響き渡る。
裏口の勝手口にたどり着き、金属の取っ手に両手をかけて体重を後ろに倒すようにして重い扉を引いた。
蝶番が重々しい摩擦音を立てて開くと同時に、刃物のように冷たい外気が一気に室内の空気を押し流していく。
目の前に広がるのは、見渡す限りの純白の雪原と、鉛色の厚い雲に覆われた低い空だった。
ルカが雪の上に1歩を踏み出した直後、視界の端で巨大な白い塊がゆっくりと持ち上がった。
「おはよう、シロ」
雪と同化して眠っていた巨大な聖獣が、ルカの声に反応してゆっくりと長い首を持ち上げる。
シロは立ち上がると、全身の筋肉を大きく震わせて毛皮に積もっていた雪を周囲に払い落とした。
黄金色に燃える大きな瞳がルカを逃さずに捉え、太く長い尻尾が空気を叩くように大きく左右に揺れる。
ルカはシロの顔の前に歩み寄り、手袋を外した素手でその鼻筋から額にかけての滑らかな毛並みに触れた。
指先が深く沈み込むほどの分厚い毛皮の下からは、暖炉の炎のように力強く安定した熱が脈打つように伝わってくる。
シロは喉の奥を低く鳴らしながら、巨大な頭をルカの胸元に優しく押し当ててきた。
ルカはその温もりに目を細めながら、背後に立てかけてあったスキとクワを両手に持ち直す。
昨日までに雪を取り除き、表面の氷を砕いた黒い土の区画へと2人は並んで歩き始めた。
ルカが重いクワを振り上げ、固く締まった土の塊に刃を打ち込もうとしたその時だった。
シロがルカの前に進み出て、自身の太い前足を高く持ち上げた。
先端に生えた黒く鋭利な爪が、容赦なく凍てついた地面に突き立てられる。
シロが前足を後ろに力強く掻き出すと、ルカが何度もクワを振り下ろしてようやく砕けるほどの固い土の塊が、あっけなく宙を舞って後方へと弾け飛んだ。
金属の農具を必要としないほどの圧倒的な力と鋭い爪によって、黒い大地が次々と深く掘り返されていく。
湿り気を帯びた土が空気に触れ、雪の匂いに混じって大地の濃厚な香りが周囲に広がり始めた。
「手伝ってくれるの、ありがとう」
ルカは驚きとともに目を丸くし、頼もしい相棒の背中に向かって明るい声をかけた。
シロが掘り返して柔らかくなった土の塊を、ルカがクワを使ってさらに細かく砕き、表面を平らに整えていく。
2人の息の合った連携によって、開墾の作業は昨日までの数倍の速度で進んでいった。
やがて日が中天に差し掛かる頃には、広い区画の土がふかふかの状態にまで耕されていた。
ルカは外套のポケットから、大切に布で包んでいた小さな種を取り出す。
王都から持参した、寒冷地でも根を張るという生命力の強い根菜の種だった。
指の腹に乗るほどの小さな黒い粒を、ルカは冷たい土の中に等間隔で優しく埋め込んでいく。
すべての種をまき終えた後、ルカは金属のバケツを取り出し、近くに積もっている新雪を大量にかき集めた。
それを自室の暖炉の火で溶かして水を作り、再び庭に戻ってきて土の上から少しずつ丁寧に注ぎかける。
水を含んでさらに黒さを増した土を見つめながら、ルカは両手を合わせて静かに目を閉じた。
『どうか、この冷たい土の中でも無事に育ってほしい』
その祈りに応えるかのように、シロがルカの背後に回り込み、温かい息を吐きながらその肩に鼻先を乗せた。
***
それから10日ほどの時間が経過した。
毎朝欠かさず庭に出て土の様子を確認することが、ルカの新しい日課となっていた。
相変わらず空は厚い雲に覆われ、冷たい風が雪を巻き上げて視界を白く染める日も少なくない。
しかし、その日の朝は違っていた。
雲の切れ間から、久しぶりに鋭い太陽の光が北の大地へと差し込んでいたのだ。
ルカはいつものように土の前にしゃがみ込み、表面の様子を慎重に観察する。
冷たい風にさらされて乾きかけている黒い土の表面に、微かな色彩の乱れを見つけた。
ルカは顔を近づけ、自身の吐く白い息が当たらないように息を殺す。
石のように固く冷たい土の隙間から、米粒ほどの小さな、しかし鮮やかな緑色の芽が顔を出していたのだ。
周囲の圧倒的な白と黒の世界の中で、その小さな緑は驚くほど力強い生命の輝きを放っている。
ルカの胸の奥で、押さえ込んでいた熱い感情が一気に込み上げてきた。
「芽が、出た」
かすれた声が唇から漏れ出し、視界が急速に涙で滲んでいく。
凍えるような寒さの中でも、命は確実に根を張り、光を求めて上へと伸びようとしていた。
ルカは震える指先を伸ばし、その小さな緑色の生命に触れないようにギリギリの距離で手を止める。
背後で控えていたシロも近づいてきて、大きな鼻を鳴らしてその小さな芽の匂いを嗅いだ。
氷の城と呼ばれるこの最果ての地に、確かな春の気配が産声を上げた瞬間だった。




