第4話「凍土を砕く冷たい銀の刃」
石造りの城内は、夜明けを迎えてもなお深い冷気に沈み込んでいた。
ルカは私室の分厚い毛皮のベッドから抜け出し、冷え切った木の床に素足を下ろす。
足の裏から這い上がってくる氷のような冷たさに、思わず肩が大きく跳ねた。
部屋の隅にある洗面台に向かい、表面に薄く氷が張った水差しから冷水を両手ですくい上げる。
顔に打ち付けた瞬間に皮膚が粟立ち、残っていた微かな眠気は刃物で削ぎ落とされたように完全に消え去った。
麻のシャツの上に保温性の高い羊毛の服を重ね、さらにその上から分厚い革の外套を羽織る。
手袋は内側に獣の毛が張られた極厚のものを選び、首元には風除けの厚手の布を幾重にも巻きつけた。
これほど着込んでも、北の地の冬を越えるにはまだ心もとない感覚が肌にまとわりついている。
ルカは静かに自室の扉を開け、まだ薄暗い回廊へと足を踏み出した。
規則正しい自分の足音だけが、高い天井に反響して不気味なほど鮮明に耳に届く。
壁掛けの燭台の炎はすでに消えかけ、窓の隙間から吹き込む冷たい風が細い煙を虚空へと散らしていた。
城の裏手にある勝手口に向かうと、そこには昨日頼んでおいた年配の使用人が静かに立って待っていた。
「奥方様、本当にご自身でなされるのですか」
老いた使用人の顔には、困惑と心配の色が色濃く浮かんでいる。
「はい、どうか私にやらせてください」
ルカはしっかりと相手の目を見つめ、静かな、しかし決して引かない意思を込めて答えた。
使用人は諦めたように深く息を吐き出し、傍らに立てかけてあった農具をルカへと差し出す。
手渡されたのは、長年放置されていたのか表面に赤茶色の錆が浮いたクワと、柄の木材がひび割れた重いスキだった。
厚手の革手袋越しに受け取っても、持ち手の木肌から伝わってくる氷のような冷たさに指先が微かに痛む。
金属部分からは微かに古い油の匂いと、冷たい鉄特有の鋭い香りが漂ってきた。
ルカは農具の重みで前のめりになりそうになる身体を必死に支え、使用人に軽く頭を下げてから重厚な裏口の扉を押し開ける。
蝶番が軋む音とともに外の空気がなだれ込み、容赦ない北風がルカの全身を激しく打ち据えた。
目の前に広がっていたのは、昨日と変わらぬ、どこまでも続く真っ白な銀世界である。
新雪が膝の高さまで降り積もり、庭園と荒野の境界線すら完全に雪の下に埋もれてしまっていた。
ルカは両手に農具を抱えたまま、自身の足跡だけが刻まれる無垢な雪原へと1歩を踏み出す。
体重をかけるたびに雪が圧縮されて硬く沈み込み、足を抜き出すのにも普段の何倍もの筋力を要求された。
歩みを進めるごとにふくらはぎの筋肉が引き伸ばされ、冷え切った関節が鈍い悲鳴を上げる。
城の壁の影から抜け出して開けた場所に出ると、遮るもののない風が氷の粒を伴って頬を容赦なく削った。
目星をつけていた小高い丘の斜面にたどり着く頃には、ルカの呼吸は乱れ、白い息が途切れることなく冬の空へと立ち上っていた。
『まずは、この分厚い雪の層を取り除かないと』
ルカは手袋の指先を動かしてこわばりを解いてから、両手でしっかりとスキの柄を握り直す。
金属の刃を雪の表面に突き立て、体重を前にかけて一気に押し込んだ。
南部の乾いた雪とは違う、水分を含んで重く締まった雪の塊がスキの刃に乗ってずっしりと持ち上がる。
それを横に放り投げるという単純な動作だけで、普段使わない肩や背中の筋肉が熱を持ち始めた。
1回、2回と雪を掻き分けるたびに、重い鉛を背負わされているような疲労感が身体の奥底に蓄積していく。
吹き荒れる吹雪の中にありながら、ルカの額にはじんわりと熱い汗がにじみ始めていた。
首筋を伝って落ちた汗が冷風に晒されると、一瞬で氷のように冷たくなり皮膚を刺す。
凍えるような外気の寒さと、体の中から燃え上がるような筋肉の熱さが混ざり合い、視界が微かに揺らぐ。
どれほどの時間が経過したのか、黙々と雪を退け続けると、ようやくその下から石のように固く凍りついた黒い大地が顔を出した。
ルカはスキを雪の上に放り出し、今度はクワを手に取って大きく頭上へと振りかぶる。
空気を切り裂く音とともに刃を振り下ろし、凍てついた地面の表面に金属を激突させた。
硬質な衝撃音が周囲の空気を震わせた直後、反発した力が柄を伝って両腕の骨を激しく揺さぶる。
手のひらの皮が剥がれそうなほどの摩擦と、肩の関節が外れるかのような強い痛みに、ルカは顔をしかめた。
刃が当たった地面には白い傷跡がわずかについただけで、土は全く掘り返されていない。
北の地の冬の土は、ルカが王都の屋敷で触れてきた柔らかい腐葉土とは根本的に異なる、冷酷な拒絶の塊だった。
それでもルカは諦めることなく、歯を食いしばって再びクワを高く掲げる。
何度も何度も、無心になって同じ場所に刃を打ち込み続けた。
衝撃で革手袋の内部が擦れ、皮膚が破れて生暖かい血が滲み出しているのが感覚としてわかる。
痛みを通り越して指先の感覚が麻痺し始めた頃、ようやく氷の層が砕け散り、その下から湿り気を帯びた柔らかな黒土が姿を現した。
ルカは荒い息を吐きながらその場に膝をつき、手袋を外して震える素手でその土に触れる。
指先を冷たい土の中に滑り込ませると、そこには確実に生命を育むための豊かな養分と微かな温もりが眠っていた。
鼻を近づけて深く息を吸い込むと、雪の匂いの奥に隠れていた、青臭くも力強い大地の香りが肺を満たす。
『ここで生きていくんだ。誰の添え物でもなく、私自身の足で立って』
傷だらけの手のひらに黒い泥をこすりつけながら、ルカの口元に自然と柔らかな笑みがこぼれた。
ルカの周囲には、削り取られた氷の破片と、黒く濡れた土の塊が散乱している。
冷たい風が吹き荒れる銀世界の中で、そこだけが春の訪れを先取りしたかのような温かな気配を漂わせていた。
頭上を見上げると、いつの間にか灰色の雲は彼方へと押し流され、高く澄み切った青空がどこまでも広がっている。
ルカは再び血の滲んだ手袋をはめ直し、痛む両手に力を込めてクワの柄を握りしめた。
冷え切った空気に満ちた静寂の庭に、凍土を砕く硬く力強い音が、等間隔のリズムを刻んで鳴り響き続ける。
誰に命じられたわけでもなく、ただ自分の内側から湧き上がる衝動に従って、ルカは大地を開墾し続けた。




