第13話「血だまりの夜と確かな誓い」
鼻腔の奥にこびりついて離れない強烈な鉄の匂いが、ルカの思考を白く濁らせていた。
薄暗い医務室のベッドに横たわるレオンの顔には、生きた人間の証である血の気がまったく見当たらない。
石のように硬く閉ざされた瞼と、青紫色に変色した唇が、彼から急速に命の熱が失われている事実を残酷なまでに告げていた。
部屋の隅に置かれた大きな水盆には、レオンの傷口からあふれ出た血を吸い取った布が何枚も投げ込まれ、張られた水はすでに黒ずんだ赤色へと濁りきっている。
城の専属である老医師が、震える手で縫合の針を動かし続けていた。
魔獣の分厚い爪によってえぐられた左脇腹の傷は、内臓に達する寸前の深さまで肉を裂き、骨の白い表面すら覗かせている。
麻酔の薬草をすり潰した汁を直接傷口にすり込んではいるが、太い針が皮膚を貫通して糸を引くたびに、気を失っているはずのレオンの喉の奥から、かすれたうめき声が漏れ出した。
その痛々しい音を耳にするたび、ルカの心臓は鋭い刃物で切り裂かれるように痛む。
ルカはレオンの頭のすぐ傍らに座り、清潔な布を冷たい水に浸して固く絞り、脂汗の浮かんだ広い額を丁寧に拭い続けていた。
自分にできることは、ただ彼がひどい熱にうなされないよう、祈るように肌に触れることだけだ。
「……縫合は終わりました。しかし、出血が多すぎる。今夜が峠になるでしょう」
長い時間をかけてようやく傷口を白い包帯で覆い隠した老医師は、ひどく疲労した顔でルカに向かって深く頭を下げた。
「ありがとうございます。あとは私が看ますから、先生は少し休んでください」
ルカの声はひどくかすれていたが、医師を気遣う響きをどうにか保っていた。
老医師が静かに部屋を退出すると、重い木の扉が閉まる鈍い音が響き、医務室には深い静寂が降り積もる。
壁掛けの燭台で揺れる小さな炎が、レオンの彫りの深い顔立ちに濃い影を落としていた。
部屋の隅にある石造りの暖炉では太い薪が赤々と燃えているが、ルカの指先は氷水に浸したようにかじかんだままで、いくら火のそばに寄っても温まる気がしない。
レオンを失うかもしれないという恐怖が、身体の芯から熱を奪い去っているのだ。
ルカは再びベッドの横に座り込み、血の汚れを拭き取られたレオンの大きな右手を、自らの両手でそっと包み込んだ。
剣を振り続けたことで分厚く硬くなった手のひらや、無数に刻まれた小さな傷跡。
この手は、不器用ながらもルカの冷えた指先を何度も温めてくれた手だ。
凍てついた北の大地で、孤独に耐えながら領民を守り抜いてきた、誰よりも優しく力強い手。
『お願い、どこにも行かないで』
声に出せば、そのまま彼が遠くへ行ってしまいそうで、ルカは口を固く結んだまま心の中で何度も叫んだ。
レオンの手の甲にルカの額を押し当てると、そこから伝わってくる脈拍はひどく弱く、今にも止まってしまいそうに不規則だった。
窓の外では、夜の闇に紛れて冬の嵐が激しさを増し、分厚いガラスを鋭い風が何度も叩きつけている。
ルカの足元には、いつの間にか部屋に入り込んでいたシロが、巨大な身体を丸くして寄り添っていた。
シロの黄金色の瞳もまた、主を失いかけているルカの悲しみに共鳴するように、悲痛な色を帯びてレオンの顔を見つめている。
分厚い毛皮から伝わる温もりに背中を支えられながら、ルカはただひたすらに時間の経過を数え続けた。
夜が深まるにつれ、レオンの呼吸はさらに浅くなり、全身が高熱に冒されたようにひどい汗をかき始めた。
ルカは何度も水を替え、布を絞り、彼の額や首筋の熱を冷まし続ける。
自身の疲労や眠気など、とうの昔に彼方へと消え去っていた。
どれほどの時間が流れたのか。
暖炉の薪が完全に灰へと変わり、窓ガラスの向こう側が薄ぼんやりとした青灰色に染まり始めた頃。
ずっとルカの手に包まれていたレオンの太い指先が、微かに、本当に微かに内側へと動いた。
***
ルカは弾かれたように顔を上げ、レオンの顔を見つめる。
石のように固く閉じられていた瞼が微かに震え、まつ毛が幾度か上下に重なった後、ゆっくりと灰色の瞳が姿を現した。
ひどく濁り、焦点の定まらない視線が宙をさまよい、やがてベッドの横で涙まみれになっているルカの顔の輪郭を捉える。
「……ルカ」
砂を噛むようなかすれた低い声が、静かな医務室の空気を微かに震わせた。
「レオン様……ああ、よかった……本当によかった……」
ルカの瞳からせき止められていた大粒の涙があふれ出し、レオンの大きな手の甲へと次々に滴り落ちる。
声を出して泣きじゃくるルカの姿を、レオンは痛む身体を動かすことも忘れて静かに見つめていた。
やがて、レオンは自由の利く右腕をゆっくりと持ち上げ、ルカの震える肩へとその重い手を乗せた。
「なぜ、泣いている。私は、まだ死んでいない」
不器用になだめるような言葉に、ルカは首を横に振りながらさらに泣き声を大きくする。
「死んでしまうかと、思いました。あなたが私を置いて、どこか遠くへ行ってしまうんじゃないかって……それが、本当に怖くて、つらい夜でした」
ルカはレオンの胸元に顔を押し当て、自身の震える身体を落ち着かせるようにすがりついた。
包帯越しに伝わってくる心臓の鼓動はまだ弱々しいが、確かな生命の熱を刻んでいる。
レオンの大きな手が、ルカの背中を優しく、そして迷いのない動きで撫で下ろした。
「すまなかった。お前を、不安にさせたな」
レオンの声には、長年彼を縛り付けていた冷酷な辺境伯という鎧が完全に剥がれ落ちた、ただ一人の男としての響きがあった。
レオンは自身の顔をルカの頭頂部にすり寄せるようにして、深く重い息を吐き出す。
「お前が私を呼ぶ声が、ずっと聞こえていた。暗く冷たい底に沈みかけていた私を、お前の声が引き戻してくれたんだ」
ルカは涙で濡れた顔を上げ、至近距離でレオンの灰色の瞳を見つめ返す。
そこには、これまでに見せたことのないほど柔らかく、そして真っ直ぐな愛情の光が宿っていた。
「借金のための契約結婚など、もう終わりにしよう。お前はただの身代わりの品ではなく、私の魂の伴侶だ」
レオンの指先がルカの涙をそっと拭い、そのまま頬を優しく包み込む。
「これからは、私の妻として、ただのルカとして、私の隣で笑っていてくれないか」
その言葉に、ルカの胸の奥でずっとくすぶっていた不安や迷いが、朝陽を浴びた朝霧のように完全に消え去っていく。
ルカは大きく頷き、レオンの温かい手に自らの頬をすり寄せた。
「はい。ずっと、あなたの隣にいます。レオン様の隣で、一緒にこの土地を豊かにしていきます」
医務室の小さな窓から、雲の切れ間を縫って射し込んだ黄金色の朝陽が、二人の身体を淡く温かく包み込んでいた。
足元ではシロが安心したように短く鼻を鳴らし、再び静かな眠りへと落ちていく。
血の匂いと凍えるような恐怖に満ちた夜は終わり、確かな誓いとともに新しい朝が始まっていた。




