番外編「雪解けの泥と日向の匂い」
冬の厳しい寒さがようやく終わりを告げ、北の辺境の地にも遅い春が確実に足音を響かせていた。
城の屋根を厚く覆っていた雪はすでに溶け落ち、灰色の石壁が久しぶりに太陽の光を直接浴びて微かな温もりを放っている。
冷たい風が吹き荒れていた空は、澄み切った水色に塗り替えられ、柔らかな陽射しが大地を優しく撫でていた。
ルカが冬の間に凍土を砕いて開墾した畑は、今や見違えるほどの広さを誇り、柔らかな黒い土が一面に広がっている。
雪解け水を含んで少しぬかるんだ土の表面には、鮮やかな緑色をした無数の作物の葉が、太陽に向かって力強く背伸びをするように茂っていた。
ルカは薄手の麻の服に身を包み、袖を肘まで捲り上げて畑の中にしゃがみ込んでいる。
手袋は外しており、素手で泥に触れながら、野菜の根元に生えた小さな雑草を丁寧に抜き取っていた。
「奥方様、休憩のお茶をお持ちしましたよ」
畑のあぜ道を歩いてきた年配の女性が、湯気を立てる木製のカップが乗ったお盆を手に微笑みかける。
「ありがとう。でも、今はルカと呼んでくださいって、いつも言っているじゃないですか」
ルカは泥だらけの手を立ち上がって軽く払い、困ったように笑い返した。
魔獣の襲撃から数ヶ月。
あの時、城の地下で避難生活を共にした領民たちとルカとの間には、身分という壁を越えた強固な絆が生まれていた。
さらに、王都から派遣されてきたあの尊大な査察官の一行は、魔獣の群れを前にして醜態をさらした事実と、辺境の領地がレオンの統治下で確実に豊かになりつつある状況を目の当たりにし、やっとのことで王都へと逃げ帰っていった。
彼らが持ち帰った報告によって、レオンを失脚させようとしていた貴族たちの企みは完全に頓挫したという知らせが、後日王都にいるルカの家族から手紙で届けられている。
「ルカ様。私たちが手伝いますから、少し休んでください。あまり無理をされると、辺境伯様にまた叱られてしまいますよ」
村の若い男たちが農具を肩に担いで笑いながら近づいてくる。
彼らの言葉に、ルカは少し顔を赤らめて木製のカップを受け取った。
「叱られはしないよ。ただ、少し大げさに心配されるだけで」
お茶の香ばしい匂いを胸いっぱいに吸い込み、温かい液体を喉へと流し込む。
その時、畑の奥から激しい泥の水しぶきが上がり、巨大な白い塊が一直線にこちらへと向かってくるのが見えた。
「シロ、畑の中を走ったら駄目だって言ったでしょ」
ルカが慌てて声を上げるが、時すでに遅く、巨大な聖獣はルカの目の前で勢いよく急ブレーキをかけた。
滑るようにして停止したシロの足元から、大量の黒い泥が跳ね上がり、ルカの服や顔に容赦なく降りかかる。
純白だったはずのシロの毛皮も、下半分が泥で真っ黒に染まり、本来の神々しい姿は見る影もなくなっていた。
「もう、せっかく昨日綺麗に洗ってあげたのに」
ルカはため息をつきながらも、怒る気にはなれず、シロの泥だらけの鼻先を両手で優しく挟み込む。
シロは悪びれる様子もなく、ルカの手のひらをザラザラとした大きな舌で舐め上げ、太い尻尾を嬉しそうに振り回した。
その光景を見ていた領民たちが、腹を抱えて大きな笑い声を上げる。
平和で穏やかな時間が、暖かな春の陽気とともに領地全体を満たしていた。
***
「また泥だらけになっているな」
背後から聞こえた低く静かな声に、ルカは勢いよく振り返った。
そこには、執務室での仕事を終えたばかりのレオンが、腕を組んでルカを見つめて立っていた。
魔獣につけられた深い傷はすでに完全に塞がり、その大木のような体躯には以前と変わらぬ力強さが戻っている。
ただ一つ変わったのは、ルカに向ける灰色の瞳の奥に宿る、隠しきれないほどの熱を帯びた優しい光だった。
「レオン様。お仕事はもう終わったんですか」
「ああ。今日の分の書類は片付いた。お前がまた土まみれになっていないか、見張りに来た」
レオンはそう言いながら、泥のついた靴を気にすることなく畑の中に足を踏み入れ、ルカのすぐ目の前で立ち止まった。
身長差のあるレオンに見下ろされると、太陽の光を背にした彼の広い肩が、ルカの視界をすっぽりと覆い隠す。
レオンは分厚い右手を伸ばし、ルカの頬に跳ねていた泥を、親指の腹でそっと拭い取った。
「あまり働きすぎるなと言ったはずだ。少しは自分の身体を労われ」
呆れたような響きの中に、甘い砂糖を溶かしたような過保護な色合いが混じっている。
「ちがうんです。これは私が転んだわけじゃなくて、シロが走ってきたからで……」
ルカが慌てて言い訳をしようとすると、足元にいたシロが自身の名前を呼ばれたことに反応し、レオンの脚に泥だらけの身体を力強くこすりつけた。
レオンの仕立ての良い黒いズボンが、一瞬にして茶色い泥で無惨に汚れていく。
「……この馬鹿犬め」
レオンは短く息を吐き出し、シロの頭を軽く小突いた。
シロは全く気にしていない様子であくびをし、そのまま日当たりの良いあぜ道へと移動してゴロリと横になった。
レオンは泥だらけになった自身の脚を一度見下ろした後、再びルカへと視線を戻す。
「まあいい。どうせ洗うのなら、一緒で構わない」
そう言うと、レオンは唐突に両手を伸ばし、ルカの腰を掴んで軽々と抱え上げた。
「わっ、レオン様。私、泥だらけですよ。服が汚れてしまいます」
ルカは驚いて足をばたつかせるが、レオンの強靭な腕の力にはまったく抵抗できない。
「すでに汚れている。気にするな」
レオンはルカを抱き上げたまま、周囲で微笑ましく見守っている領民たちに軽く会釈をし、城の方角へと歩き始めた。
腕の中に収まるルカの顔は、恥ずかしさで耳の先まで真っ赤に染まっている。
「みんなが見てます。歩けますから、降ろしてください」
ルカが小さな声で抗議するが、レオンは聞こえないふりをして足を止めない。
「たまには、私のわがままにも付き合え。ずっと部屋にこもっていて、お前の顔を見る時間が少なかったんだ」
不意に落とされた直球の言葉に、ルカの心臓が甘く跳ね上がった。
レオンの胸板から伝わってくる規則正しい鼓動と、日向の匂いが混じった彼の体臭が、ルカの全身の力を心地よく抜けさせていく。
ルカは抵抗するのをやめ、泥で汚れた腕をレオンの首にそっと回し、その広い胸に額を預けた。
春の柔らかな風が、二人の間を通り抜けて緑の畑を静かに揺らしていく。
北の最果てと呼ばれたこの場所は、今や二人にとって世界で最も温かく、甘やかな時間を刻む愛の巣となっていた。




