エピローグ:終章4:再生の足跡と、繋がる縁
夜の静寂が、琥珀色の照明に照らされた喫茶店を優しく包み込んでいた。
カウンターの端で、鶫は先ほどまで話に上っていた凄惨な現実の余韻を振り払うように、自分の指先をじっと見つめている。
そんな彼女の心の揺らぎを、漆黒の仮面を脱ぎ捨てた鬼道閻魔は見透かしていた。
閻魔は、まるで迷える子羊の背をそっと撫でるかのような慈しみを込めて、手元にあったコーヒーカップをゆっくりとカウンターに置いた。
「そうそう、鶫さん。あなたが最も案じているであろう幸子さんのことですが、彼女は今のところ、誰に脅かされることもなく平穏無事に暮らしているようです。安心なさい」
不意に耳に飛び込んできた名前に、鶫は弾かれたように顔を上げ、驚きに目を見開いた。
「え……? 幸子さんの様子が、わかるんですか?」
閻魔は、鶫の真っ直ぐな瞳を真っ向から受け止め、淡々と、しかしどこか誇らしげに語り始める。
「幸子さんが京都に帰還した後、念のためにスタッフを派遣して彼女のその後の様子を密かに調査させたのです。そうしたところ、彼女は以前とは打って変わって、驚くほど穏やかになったとの報告が入りました。聞けば、かつての彼女は、この上なく典型的なお局気質で、周囲からはかなり口うるさい嫌われ者のおばさんとして扱われていたそうですが……。今は、これまで自分が傲慢に接してきた人々に対して、一人ひとり、誠実に謝罪をして回っているそうです。自分勝手だった態度や、尖っていた言い方の一つひとつを、根底から改めているのだとか」
閻魔はそこで言葉を区切り、窓の外に広がる静かな夜の街へと視線を向けた。
「そして、幸子さんも当然、彼岸さんの生還に関する大々的な報道を目にしていることでしょう。自分が、あの崇高な人を死に追いやった張本人にならなくて済んだのだと、今頃は心から胸を撫で下ろしているはずですよ。ふふ、あの方は、案外と責任感の強い人ですからねえ」
その言葉を聞いて、カウンターの奥で静かに微笑んでいた彼岸が、仏のような慈愛を湛えた表情で頷いた。
「幸子さんが、自らの過ちと向き合い、心の平穏を取り戻されたのであれば、私にとってもこれ以上の喜びは御座いません。苦しみの鎖を解くのは、いつだって自分自身の『気づき』に他なりませんからね」
閻魔はさらに、世間という名の巨大な観客たちの動向についても、冷静な分析を付け加えた。
「世間からは、当初こそある程度のバッシングはあったものの、彼女があの施設で見せた当事者意識と深い罪悪感、そして何より鶫さんを真剣に案じていたあの献身的な姿があったからこそ、致命的なまでに責め立てられることはありませんでした。あの醜悪な状況下で、誰かを愛するということは、何よりも強い免罪符になりますからね。後は、幸子さんのこれからの在り方次第で、十分に豊かな、良い人生を再構築していくこともできるでしょう」
「そうですか……。ああ、良かった……。本当に、無事だったんですね」
鶫の胸の奥で固く結ばれていた不安の糸が、温かな涙と共に解けていく。
閻魔はそんな鶫の安堵した様子を眺めながら、悪戯を思いついた子供のように瞳を細め、唇に優美な笑みを浮かべた。
「……ところで、鶫さん。あの施設での最後、幸子さんがあなたを力強く抱きしめた時、あなたの耳元で何か大切なことを囁いていたようですが……。ふふ、やはりあれは、私でも立ち入れないような個人情報の類だったのでしょうか?」
核心を突く問いかけに、鶫は思わず「あはは」と声を上げて笑った。
「閻魔さんには全部お見通しなんですね。隠し事は本当に無理そうです」
閻魔は、誇らしげに顎を引いて頷いた。
「流石にあの場面では、分かりやす過ぎる行動でしたからね。鶫さんと彼岸さんのその後の生活については、私から幸子さんには一切知らせていません。落ち着いたら、お二人の方から直接会いに行ってあげると良いでしょう。彼女も、きっと泣いて喜ぶでしょうから」
「はい! 必ず、会いに行きます」
「ええ、それは素晴らしい。私も同行させて頂ければ、幸いで御座います」
鶫と彼岸の晴れやかな返答を聞き、閻魔は満足げに席を立った。
「さて、夜も更けてきました。伝えるべきことも伝えましたし、私はそろそろ帰ることにします。御馳走様でした。それではまた、ごきげんよう」
閻魔はそう言い残すと、颯爽とした足取りで、カランコロンと涼やかなドアベルの音と共に喫茶店を後にした。
「閻魔さん、本当に有難う御座いました!」
「有難う御座います。道中、お気をつけて」
二人は深々とお辞儀をして、暗闇へと消えていく彼女の背中を見送った。
温かな珈琲の香りが残る店内で、鶫は遠い京都の地にいるであろう幸子の幸せを、夜風に乗せて祈り続けていた。
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