エピローグ:終章2:琥珀色の晩餐と、導きの光
金曜日の夕刻、トレーニングスタジオで一汗流し、心地よい筋肉の疲労感に包まれた鶫と彼岸は、丁度夕食に良い時間であったので、そのまま馴染みとなった喫茶店へと戻り、夕食を取ることにした。
厨房には食欲をそそるケチャップの甘い香りが立ち込め、手際よく調理されたナポリタンスパゲッティが二人の前に並べられた。
湯気を立てる皿を前に、二人は背筋を伸ばして掌を合わせる。
「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏……」
静謐な店内に、二人の声が重なり合い、十回の念仏が穏やかに染み渡っていく。
「頂きます。」
感謝と共に口にしたナポリタンは、どこか懐かしく、そして今の自分たちが手に入れた平穏そのもののような温かい味がした。
食後の余韻を楽しむように、淹れたての珈琲をゆっくりと口に含んでいると、店のドアベルが「カランコロン」と軽やかな音を立てて鳴り響いた。
夜の帳が下り始めた街から入ってきたのは、長く美しい黒髪を夜風に揺らした、サングラス姿の美女――鬼道閻魔であった。
「閻魔さん、今晩は。」
鶫が顔を輝かせて挨拶すると、彼岸もまた柔和な笑みを浮かべ、椅子から立ち上がって掌を合わせた。
「今晩は。御疲れ様で御座います。」
「ごきげんよう、御二方。ふふ、すっかり日常に戻られたようで何よりです。」
閻魔はサングラスを外し、吸い込まれるような瞳を細めて微笑んだ。
「私にも珈琲を頂けます? あ、もし何か軽食があれば嬉しいですね。少し仕事が立て込んで、夕食を食べ損ねてしまったから。」
「サンドイッチなら、すぐに御用意出来ますよ。」
彼岸は淀みのない所作ですぐに厨房へと戻り、瑞々しい野菜と厚切りの肉を挟んだローストビーフサンドを仕立てて差し出した。
「ローストビーフサンドですか、これは豪華な夕食になりますね。有難う御座います。それでは、頂きます。」
閻魔は丁寧に合掌し、凛とした気品を感じさせる所作でサンドイッチを口に運んだ。
その様子を隣で見つめていた鶫の脳裏に、先ほどの閻魔の言葉が反芻される。
「すっかり日常に戻られた」というその一言。
鶫にとって、今の生活は単に「戻った」だけではない。
かつての音無家と学校生活で経験していた、理不尽ないじめも、身体を苛む暴力も、魂を削るような迫害も、ここには何一つ存在しない。
温かな食事があり、尊敬できる師がいて、自分を正当に評価してくれる居場所がある。
それは以前の彼女には想像もできなかった、奇跡のような日々であった。
「有難う御座います、閻魔さん、彼岸さん……。」
鶫は溢れ出す感情を抑えるように、二人に向かって深く、深く頭を下げた。
「私がこうして、何の怯えもなく平穏な日常を送ることが出来るようになったのは、間違いなく御二方の御蔭様です。彼岸さんに正しい道へと導いて頂き、閻魔さんにこの素晴らしい環境を整えて頂いた。今の私が笑っていられるのは、お二人のおかげなんです。本当に、心から感謝しています。」
その真っ直ぐな言葉に、彼岸は仏のような慈悲深い笑みを浮かべ、静かに首を振った。
「それはそれは、大変恐縮で御座います。ですが鶫さん。あなたが今こうして平穏を享受できているのは、何よりも鶫さん自身の努力と、あなたが持ち続けてこられた、その清らかな在り方によるものだと思いますよ。」
ローストビーフサンドを完食し、珈琲で喉を潤した閻魔も、満足げに目を細めて頷いた。
「ええ、彼岸さんの仰る通りです。私はただ場所を提供したに過ぎません。その場所を『日常』として彩ったのは、紛れもないあなた自身。胸を張りなさい。」
窓の外には穏やかな夜の街並みが広がっている。
かつて絶望の淵にいた少女は、自分を救い、一人の人間として向き合ってくれた大人達との出会いに、今、魂の底から感謝を捧げていた。
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