第九十章:灰燼の残り香と、見えざる指先
喫茶店での仕事を終え、彼岸と穏やかな挨拶を交わして店を出た鶫は、駅へと向かう足取りの中でふと思い立った。
まだ夕刻の陽光が街をオレンジ色に染め上げており、新しい家へ帰るには少しだけ時間がある。
彼女は吸い寄せられるように電車を乗り継ぎ、かつて親戚たちと忌まわしい日々を過ごした「音無家」があった場所へと向かった。
都内の住宅街の一角に到着した鶫を待っていたのは、無残に崩壊し、原形を留めていない家屋の残骸だった。
敷地の周囲には「KEEP OUT」と書かれた黄色いテープが幾重にも張り巡らされ、立ち入りを厳しく拒んでいる。
瓦礫の隙間からは、生活の断片であった家財道具が焼け焦げた姿を覗かせており、鼻を突く焼けた独特の匂いがいまだに周囲に漂っていた。
ほんの数日前まで、自分はこの場所で絶望の中にいたのだ。
叔父や叔母、その息子から受け続けた不当な暴力と、冷酷な言葉の数々。
施設に送られる直前の、あの吐き気がするほどに不自然で偽りに満ちた優しさは、自分を10億円に変えるための卑しい芝居だったのだと、今の鶫には、はっきりと理解できた。
しかし、そんな彼らが唐突に未来を奪われ、命を散らしたという事実に、鶫の胸中には名状しがたい複雑な感情が渦巻いていた。
悲しみではない、だが、純粋な歓喜でもない。
ただ、あまりにも不可解で、そしてあまりにもタイミングが良すぎるという、拭いきれない違和感だけが心に居座っている。
自分を虐げ、踏みにじってきた者たちが、申し合わせたように次々とこの世から消えていく。
それと引き換えに、自分の周囲には彼岸との出会いを含め、あまりにも完璧すぎるほどに平穏な環境が整えられた。
(……ひょっとして、全ては仕組まれていたことなの?)
鶫の脳裏に、あの禍々しくも美しい「鬼道閻魔」の姿が浮かぶ。
この家で起こったガス爆発も、そして4人の男たちが揃って滑落死したという悲劇も。
政府、あるいは閻魔が所属する巨大な組織が、自分という「不適合者」をこの社会で生かすために、邪魔な存在を全て「掃除」したのではないか。
そう思えてならないほどの、底知れぬ作為を感じずにはいられなかった。
「……これは私の勝手な憶測だし、真実を知ることは、きっと一生出来ないけれど。」
鶫は誰に聞かせるでもなく、静かに独り言を零した。
瓦礫の山を見つめる彼女の瞳には、かつての怯えはなく、どこか悟ったような静謐な光が宿っている。
もし、この平穏が誰かの手によって作られた血塗られた報酬なのだとしたら、自分にできることは一つしかない。
「今を生きている私がなすべきは……。何があっても、誠実に生きること、か。」
そう呟くと、鶫はかつて自分が囚われていた場所へ背を向けた。
立ち上る灰の匂いを夜風がさらっていく。
彼女は一度も振り返ることなく、新しい日常が待つ場所へと、迷いのない足取りで歩き出した。
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