第八十九章:此岸の生、受け継がぬ命の決意
「さて、伝えるべきことも伝え終えましたから、私はこれで御暇します。それではまた、ごきげんよう。あ、私はここのオーナーですから、珈琲は福利厚生として無料という事で。ふふっ、役得ですね」
閻魔はそう言って、悪戯っぽく口角を上げると、丁寧に一礼した。
彼女は再び使い慣れたサングラスを装着し、カジュアルな装いに戻った死神の足取りで、カランコロンと涼やかな音を残して喫茶店を後にした。
「はい。またのお越しをお待ちしておりますよ。」
彼岸はいつものように穏やかな笑顔を湛え、去りゆく彼女の背中に向かって、静かに合掌してお辞儀をした。
「……色々と、本当に有難う御座いました。」
鶫もまた、深々とお辞儀をして彼女を見送った。
扉が閉まり、午後の柔らかな光が差し込む店内には、再び鶫と彼岸の二人きりの静寂が戻ってきた。
鶫は、先ほどタブレットで見たあの凄惨なニュースの残像を脳裏から追い出すように、ゆっくりと視線を落とした。
「……あんなに、あんなに必死に、外に出ることを望んでいたのに。それが叶ったばかりだったのに……。残酷と言えばいいのか、虚しいと言えばいいのか、今の私には上手く言い表せません」
絞り出すような彼女の声に、カウンターの奥に立つ彼岸は、豆を挽く手を止めて静かに語り始めた。
「一寸先は闇、そして諸行無常。人は生老病死という宿命から逃れられず、四苦八苦にはどうあがこうが、ただ受け身であるしか御座いませんからねえ」
彼岸の声は、まるで古びた経本を読み上げるかのように、静かに鶫の心に浸透していった。
「彼らは、山で死と深く縁を結ばれました。数日間であれ、苦楽を共にした縁ある者としては、悲しみを感じざるを得ません。ですが、これもまた『此岸』に残された私たちが、あるがままを引き受けて生きていくということで御座います」
そう言うと、彼は再び掌を合わせ、目蓋を閉じて深々とお辞儀をした。
「……はい。」
鶫は小さく、しかし確かな重みを持って頷いた。
そして、彼女の心の中に、ある種の冷徹で、それでいて純粋な決意が芽生えていた。
あの四人と自分は、全く別の個体であり、歩んできた人生も、これから歩むはずだった時間も違う。
だからこそ、「あの四人の分まで自分が生きる」などという、美辞麗句で飾られた思いを抱くことはなかった。
それは、死者の生を勝手に肩代わりするような、どこか傲慢な行為に思えたからだ。
死者は死者として、その運命を全うしたのだ。
縁あった者たちの「死」という剥き出しの事実を知り、その重みさえも自分の人生の一部として引き受ける。
だが、自分はあくまでも「音無鶫」という、たった一人の人間として生きていくのだ。
「私は……この生を、この命を……私のものとして引き受けて、生きていくんだ」
誰に聞かせるでもなく、鶫の唇から自然と言葉が溢れ出した。
それは悲しみでも、怒りでもない。
この過酷な世界で、自らの足で立ち続けることを選んだ、一人の少女の魂の産声であった。
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