第八章:結果自然と、底知れぬ静寂
「ふん、何いい子ちゃんぶってんだよ。虫唾が走るぜ。」
清水翼は、反論を試みた鶫を鼻で笑い、歪んだ唇から吐き捨てるように悪態をついた。
その瞳には、かつて教室で彼女を追い詰めていた時と同じ、弱者を嘲弄する暗い愉悦が宿っている。
「彼岸さんからの点数稼ぎのつもりなんだろうが、そうやって彼岸さんを庇うのは勝手だがね。」
笠原慎介は、冷え切った珈琲のカップを見つめたまま、鶫へと冷酷な視線を向けた。
「いいかい鶫ちゃん、幸子さんだって、いつ手のひらを返すかわからない。さっきは選定の対象から外すなんて言っていたが、あんなものはその場の気分に過ぎないんだ。仮に幸子さんが選定しなかったからといって、君がまだ助かったわけじゃない。この場にいる全員、自分が助かるために、虎視眈々と他人の隙を狙っているんだからね。」
慎介の言葉は、まるで鋭利な氷の刃のように、鶫の胸に深く突き刺さった。
かつて詐欺的な悪徳コンサルで人心を弄んできた男の言葉には、人間の悪意を知り尽くした者特有の、嫌な説得力が宿っていた。
「私は……そんなつもりじゃ……。」
鶫は言葉を失い、俯いて細い指先を強く握りしめた。
自分でも気づかないうちに流されてしまいそうな絶望の淵で、隣に立つ彼岸が、静かにその空気を塗り替えた。
「お心遣い、感謝申し上げます、鶫さん。」
彼岸は、いつものように穏やかな所作で、鶫に向かって深く合掌し、丁寧にお辞儀をした。
その立ち振る舞いは、激しい罵声が飛び交っていた食堂に、寺院の静寂を持ち込んだかのようであった。
「今日は突然、よくわからない場所にやって来て、慣れない環境で皆さんお疲れで、緊張されているのでありましょうから、無理もありませんよ。一晩休めば、ある程度は落ち着きを取り戻されるのではありませんかねえ。」
彼岸はニコニコと微笑みながら、残っていた珈琲をゆっくりと飲み干した。
彼の表情からは、慎介に「生産性がない」と罵られた傷跡など微塵も感じられない。
「本日は一旦、お開きに致しましょうか。心身ともに落ち着いた状態でしたら、また別の楽しい話も出来ましょう。」
彼岸はそう言って、椅子を引いて立ち上がった。
「お皿は私が洗っておきますので、皆さんはゆっくりとお休みくださいまし。」
彼は流れるような動作で、テーブルに散らばった空いた皿を一枚ずつ回収し始めた。
「ふんっ。」
翼は鼻を鳴らすと、苛立ちを隠さずに椅子を蹴るようにして食堂から出て行った。
それを合図にしたかのように、慎介や智弘、義彦、そして幸子も、重苦しい沈黙を引きずりながら、次々と食堂を後にした。
残されたのは、煌々と照らされた無機質な空間と、食器を片付けて流し台に向かう彼岸の足音だけである。
「あ、私も手伝います。」
鶫は、独りで皿を運ぶ彼岸の横へ駆け寄り、共に流し台へと向かった。
蛇口から勢いよく出る水の音が、静まり返った食堂に不自然なほど大きく響く。
「……これから、どうなるんでしょうか?」
スポンジを動かしながら、鶫はこらえきれずに呟いた。
選定、死、10億、そして剥き出しにされた他人の過去。
先行きが見えない恐怖が、冷たい水のように彼女の心を浸食していく。
「結果自然、ですよ。」
彼岸は、泡に包まれた皿を丁寧に流しながら、眩いばかりの笑顔で言った。
「え?」
聞き慣れない言葉に、鶫は手を止めて聞き返した。
「なるべきようになり、行きつくべきところに落ち着く事でありましょう。先程も申しました通り、一寸先は闇ですからねえ。案ずるよりも、今この瞬間の清潔な皿を愛でる方が、よほど心が安らぎますよ。」
彼岸は、穏やかに笑いながら、磨き上げられた皿を光にかざした。
鶫は、その横顔を盗み見るように見つめた。
彼岸という人物は、どこか底が知れない。
ただの善良な人間なのか、あるいは全てを悟り、死すらも他人事のように眺めている狂人なのか。
優しさを感じると同時に、その微笑みの奥にある「虚無」のような深淵に、鶫は得体の知れない畏怖の念を抱かずにはいられなかった。
彼が笑えば笑うほど、この施設そのものよりも恐ろしい何かが、彼の背後に潜んでいるような気がしてならなかったのである。
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