第九章:透明な労働と、静寂の諦観
乾燥機にかけられた食器の熱が、指先に微かな余韻を残していた。
食堂を後にし、彼岸と別れた鶫は、無機質な廊下を一人歩いて自室へと戻った。
清潔だが冷え冷えとした個室に入り、まずは浴室へと向かう。
温かなシャワーが、今日一日の緊張と他人の悪意を洗い流してくれるようだった。
湯上がり、用意されていた新しい黒のトレーナーに袖を通すと、脱いだ制服を「洗濯物」と記された籠へと丁寧に納めた。
指定された回収場所へ籠をセットするその手つきは、どこまでも慣れたものである。
「……変な感じ。」
ふと、鶫の唇から独り言が漏れた。
これまで親戚一家の家事を全て一人で背負わされてきた彼女にとって、自分の汚れ物が誰かの手によって、あるいは機械によって「自動的」に処理されるという状況は、妙な新鮮味を帯びていた。
家であれば、洗濯物を放り込んでおけば、翌朝には乾いて畳まれているのが当たり前だと思われていた。
食事が出てくることも、部屋が片付いていることも、親戚たちにとっては蛇口を捻れば水が出るのと同じ、自然現象のようなものだったのだろう。
その現象を下支えしていたのが、音無鶫という一人の人間の労働であったことに、彼らは一度として思い至ったことはなかったはずだ。
透明な存在として扱われ、都合の良い道具として消費される日々。
ふと、食堂で見せた彼岸の手際の良い動作が脳裏をよぎる。
彼もまた、孤独な生活の中で磨き上げられた確かな生活力を持っていた。
それだけでなく、どれほど醜悪な言葉を投げつけられても、澱みない笑顔で受け流す柳のようなしなやかさと、鋼のような器の大きさ。
「彼岸さんには、生きて帰って欲しいな。」
鶫の胸の内に、小さな、けれど確かな願いが自然と芽生えていた。
自分に優しくしてくれたあの穏やかな男性だけは、この泥沼のような場所から抜け出して欲しい。
「まあ、大丈夫だろうけど。だって……選ばれるのは、存在価値がない私なんだから。」
自嘲的な思考が、どす黒い霧のように思考を侵食していく。
学校でも、家でも、彼女の居場所はどこにもなかった。
いつからだろうか、「存在価値がない」「さっさと死ねばいいのに」という言葉が、挨拶のように彼女の耳に突き刺さるようになったのは。
世界中の人間が彼女の存在を否定し、彼女自身もまた、その否定を受け入れることで辛うじて均衡を保ってきたのだ。
「存在価値が無いって思うなら、いっそ私の事なんか殺しちゃえばいいのに。……誰も、そうはしてくれないんだよね。」
死を望まれながらも、生かされ、搾取され続ける矛盾。
だが、この「死者選定」という場は、その歪な願いを叶えてくれる装置そのものではないか。
「私がいなくなれば、きっとみんなの願いが叶うって事なんだよね。」
鏡に映る自分の顔を眺めながら、鶫は小さく呟いた。
自分という不要なピースが欠けることで、この閉塞した世界が少しでも滑らかに回り出すのなら、それは彼女にとっての唯一の救いのようにすら思えた。
---




