第八十七章:此岸の真実、あるいは観察者の眼差し
琥珀色の香りに満ちた店内で、閻魔はカップを置き、ふと思い出したかのように目を細めた。
「真名と言えば、彼岸さんの本名を、鶫さんはもう聞きましたか?」
その唐突な問いかけに、鶫は虚を突かれたように目を見開いた。
「え? 彼岸さんの……本名、ですか?」
言われてみれば、あの日あの施設で出会い、共に死線を潜り抜けてきたというのに、彼を「彼岸」という呼称以外で捉えたことなど、ただの一度もなかった。
「その様子だと、まだ知らないのですね。」
閻魔は可笑しそうに微笑み、カウンターの奥に立つ男へと視線を投げた。
「彼岸さんのことは、もう『彼岸さん』として心に深く認識していましたから……。お名前が別にあるなんて、考えすら及びませんでした。」
鶫は戸惑いながらも、吸い寄せられるように彼を仰ぎ見た。
そこには、いつものように泰然自若として、すべてを包み込むような慈愛を湛えた、仏のような笑顔の彼が佇んでいた。
そんな彼の様子を見て、閻魔は呆れたような、それでいて心の底から納得したように声を立てて笑った。
「名乗らなかったのですか?」
その問いに、彼岸は困ったように眉を下げ、穏やかな声で応じた。
「はて。自分の本名のことなど、すっかり忘れておりました。知られて困るようなことは何も御座いませんが、知られていなくても、特に問題なく過ごせておりましたゆえ。ですが鶫さんには、少し不親切をしてしまいましたかな。」
「そうですか。まあ、あなた達二人の今の関係を見れば本当にそう思いますし、あなたらしいと言えばあなたらしいですね、彼岸さん……いえ、此岸 真観さん。」
閻魔がその名を口にした瞬間、店内の空気が一変し、厳かな静寂が降りてきた。
「しがん……しんかん……。それが、彼岸さんの本当の名前……。」
鶫はその響きを確かめるように、一音ずつ大切に、震える声で呟いた。
「此岸彼岸の『此岸』に、真実の『真』、そして観察の『観』と書きまして、此岸真観と申します。改めまして、以後お見知りおきを。」
彼は静かに掌を合わせ、深々と合掌してお辞儀をした。
「皮肉と言いますか、面白い真実と言いますか。死を覚悟し、彼岸へ行く準備ができていたあなたは、結局、本名の通りにこちらの世界……此岸に落ち着きましたね。そして、あの醜悪な遊戯の場において唯一人、真実を観ていた。名は体を表すとは、よく言ったものです。」
閻魔は感銘を受けたように微笑み、感慨深げに彼を見つめた。
「あ、此岸彼岸と言えば……。」
何かに思い至ったかのように、閻魔の表情が再び「主催者」のそれへと引き締まった。
彼女は足元に置いていたレザージャケットに合う黒いバッグから、無機質な輝きを放つタブレット端末をゆっくりと取り出した。
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