第八十六章:仮面の下の真名、あるいは最高の目くらまし
カウンターに置かれた琥珀色の液体を一口楽しみ、美女は指先でゆっくりとサングラスを外した。
露わになったのは、やはりあの施設で見た、この世のものとは思えないほどに整った、吸い込まれるような瞳であった。
「あ……あの、閻魔さん。その、例の閻魔大王のお面とか、今外したサングラスとか……取っちゃっていいんですか? 正体がバレるとか、そういうのは……」
鶫が戸惑いながら尋ねると、彼女は可笑しそうに目を細めて笑った。
「別に、必死に素顔を隠していたわけではありませんよ。あの閻魔面はあくまで舞台装置、演出ですから問題ありません。もっとも、普段からサングラスを愛用したり、あまり表に素顔を晒さない生活をしていたりするので、もうこのミステリアスな設定のままでいいか、と半分は開き直っていますがね。そういう事情もあって、真名とでも言いましょうか……私の素顔と共に本名まで知っているのは、ごく限られた者たちだけです。ね、その方が面白いでしょ?」
「は、はあ……」
矢継ぎ早に明かされる「閻魔」という存在の舞台裏に、鶫はただただ圧倒されるばかりであった。
「とりあえず、公にはペンネームやハンドルネームとか、コードネームとして『閻魔』で通しています。そして……」
そこで彼女は言葉を切り、カウンター越しに鶫を真っ直ぐに見据えた。
「あなたには約束していましたね。モニター越しではなく、次に直接対面する時は、私の名を明かす、と」
「あ……そういえば、そんな約束をしていましたね」
鶫の脳裏に、施設を去る間際の彼女との会話が鮮明に蘇る。
「私は、『鬼道 閻魔』と言います。ふふっ、最早これだけで地獄行きが確定しているような、業の深い本名ですよね」
彼女は自嘲気味に、しかしどこか誇らしげに笑った。
「鬼道、閻魔さん……」
鶫はそのあまりに強烈な字面を頭の中で反芻し、息を呑む。
「子供の頃から高校生くらいまでは、この名前のせいで随分と揶揄われたものですよ。変な連中に絡まれたりね」
閻魔は、どこか懐かしむような表情でフッと笑う。
「その、お名前で大変な思いをされてきたんですね。でも……鬼と閻魔。まさに地獄を司る王のようで、私は凄く格好良い名前だと思います」
鶫が本心からそう告げると、彼女は一瞬だけ意外そうに目を見開き、やがて柔らかく微笑んだ。
「あなたは本気でそう思ってくれている。それが伝わるから、素直に嬉しく思いますよ。有難う、鶫さん」
「……あれ? でも、それだと……」
鶫はふと、ある矛盾に気づいて首をかしげた。
「あの施設では、最初から本名を名乗っていたという事になりますよね? ペンネームだと仰いましたけど、結果的には本名じゃないですか」
「ええ。ですが、あの不気味な閻魔のお面を付けて『閻魔だ』と名乗ったらどうでしょう。お面の強烈なビジュアルに引っ張られて、観た人は誰もが『閻魔の面を付けているから、閻魔というコードネームを名乗っているのだ』と思い込んでしまう。そこに、まさか本名が混ざっているなんて、誰一人として疑いもしないでしょう?」
「……! なるほど、見せ方の工夫で錯覚させたわけですか。あえて隠さず晒すことで、逆に真実を隠匿するなんて……」
鶫が感嘆の声を漏らすと、彼女は「御名答」と短く告げ、茶目っ気たっぷりにウインクをしてみせた。
(閻魔さん……怖い人だと思っていたけれど、案外お茶目なところがあるんだな)
鶫はカウンター越しに笑う彼女を見つめながら、その意外な人間味に、心のどこかで親近感のような温かなものを感じていた。
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