第八十五章:仮面を脱いだ死神、琥珀色の午後に現る
週末の土曜日、学校が休日ということもあり、鶫は早朝の時間帯に店へと足を運んだ。
静まり返った街並みに鶫の足音が響き、午前5時50分に店に到着する。
喫茶店の裏口から足を踏み入れると、そこには既に彼岸の姿があった。
彼は既に厨房に立ち、焙煎された豆の状態を確かめるように静かに動いている。
「お早う御座います、彼岸さん。早いですね」
「お早う御座います、鶫さん。朝の空気は珈琲の香りを一番素直に伝えてくれますからねえ」
二人は短く挨拶を交わすと、阿吽の呼吸で開店準備に取り掛かった。
午前6時50分、定刻より少し前に男女のスタッフが合流し、午前7時丁度に「OPEN」の札が返される。
そこからは怒涛の時間が流れた。
モーニングを求める常連客から、昼時のランチ客まで、鶫と彼岸は休む間もなく動き続けた。
14時に営業を終え、ようやく訪れた休息の時間。
四人で賄いのローストビーフサンドを頬張り、心地よい疲労感を共有する。
やがて男女のスタッフが「お疲れ様でした」と店を後にし、15時を少し過ぎた頃、翌日の仕込みをすべて終えた鶫と彼岸は、カウンターで一息つくための珈琲を淹れた。
その時だった。
カラン、とドアベルが鳴り、一人の女性が店内に足を踏み入れてきた。
鶫は思わず目を見開き、手に持っていたカップを危うく落としそうになる。
そこにいたのは、漆黒のハイネックシャツの上にレザージャケットを羽織り、黒のカーゴパンツを着こなした、目を疑うほどの美女だった。
サングラス越しでも分かるその凛とした佇まいと、艶やかに揺れる黒髪。
カジュアルな装いでありながら、周囲の空気を一瞬で支配するような圧倒的なオーラを纏っている。
美女は迷いのない足取りでカウンター席へ歩み寄り、流れるような動作で腰を下ろした。
彼岸は驚く様子もなく、いつもの柔和な笑みを湛えて頭を下げる。
「いらっしゃいまし。良い午後で御座いますね」
「ごきげんよう。……今、御二人が飲んでいるのと同じ珈琲を一杯頂けますか?」
その声を聞いた瞬間、鶫の背筋に電流が走った。
聞き覚えのある、理知的でいてどこか冷徹な響きを含んだ、あの「閻魔」の声だ。
「畏まりました。ただいま」
彼岸は丁寧にお辞儀をすると、流れるような所作で新たな珈琲を点て、彼女の前に静かに差し出した。
鶫は、目の前の現実と記憶の中の仮面がようやく結びつき、喉の奥を鳴らしてやっとの思いで口を開いた。
「あ、あの……こんにちは。……ええと、ごきげんよう、でしょうか」
「はい、こんにちは。ごきげんよう、鶫さん」
閻魔……そう呼ぶべき美女は、サングラスを少しずらし、吸い込まれるような瞳で鶫に微笑みかけた。
彼女は届けられた珈琲を一口含み、その香りを慈しむように目を細める。
「彼岸さんには、まだ私の素顔を見せていないはずなのですが。やはり一発で私だと分かったみたいですね」
「ええ、いかにも。その美しき黒髪と、何よりも……その耳に心地よい御声で分かりますよ」
彼岸は優しく微笑みながら、カウンター越しに彼女を見つめた。
「閻魔さん……今日は、その、非番なんですか?」
鶫が恐る恐る尋ねると、彼女は再び珈琲を口にし、満足げに頷いた。
「ええ。午前中まではあいにく仕事をしておりましたが、午後は非番を頂きました。……ようやく時間が出来たのでね。あの施設にいた時からずっと飲みたいと思っていた、彼岸さんとあなたが入れる珈琲を飲みに来たのですよ」
仮面を脱ぎ捨て、午後の柔らかな光の中に溶け込んだ彼女の笑顔は、残酷な死を司る者とは思えないほど、穏やかで美しいものだった。
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