第八十四章:琥珀色の日常、再来の調べ
彼岸と再会を果たしたその日のうちに、鶫は迎えに来たスタッフ達の車に揺られ、新たな住まいへと送り届けられた。
用意された新居は、外観こそ落ち着いた団地であったが、一歩足を踏み入れれば最新の設備が整った、驚くほど豪華で清潔な空間が広がっていた。
運び込まれた鶫の私物は、以前の家での暮らしを物語るかのように、あまりにも少なかった。
スタッフが手際よく回収してくれた段ボールの中身は、数冊の教科書と、着古した僅かな衣類だけ。
「……これで、全部」
寂寥感よりも、むしろ過去を削ぎ落としたような清々しさを感じながら、鶫は短時間で荷解きを終えた。
余った時間で、彼女は新しい学校への転入手続や、役所に提出すべき書類の記入を済ませると、熱いシャワーを浴びて、新しい、ふかふかのベッドに潜り込んだ。
翌朝、鶫は朝一番で新しい学校へと向かい、転入手続を滞りなく完了させた。
続けて役所へも足を運び、必要書類を提出し終える頃には、まだ午前の光が眩しい時間帯であった。
やるべきことを全て片付けた彼女が次に向かったのは、彼岸が厨房を任されている、あの琥珀色の喫茶店だ。
ドアベルの「カランコロン」という涼やかな音に迎えられ入店すると、そこには昨日、茶封筒を渡してくれた例の男女のスタッフが、エプロンを纏って手際よくホールとレジを切り盛りしていた。
時刻は丁度、昼のピークタイムが始まる直前。
鶫は彼らに手短に挨拶を済ませると、すぐに厨房用の服へと着替え、戦場となるキッチンへと足を踏み入れた。
シュッ、シュッと、小気味よい包丁の音が響く。
注文されたサンドイッチの仕上げを終えた彼岸が、鶫の姿を見つけてふっと目元を和ませた。
「お早う御座います、鶫さん。手続の方は無事に済みましたかな?」
「お早う御座います、彼岸さん。はい、全て終わりました。……今日から、宜しくお願いします!」
鶫もまた、緊張の中にも確かな喜びを宿した笑顔で応え、すぐさま厨房の仕事へと取り掛かった。
次々と舞い込むオーダー。
彼岸の淀みのない動きに合わせ、鶫もまた、ファミレスで培った技術を存分に発揮していく。
バチバチッとベーコンが弾ける音、芳醇な珈琲の香りが立ち込める中、二人は言葉を交わさずとも、驚くほど息の合った連携を見せていった。
怒涛の昼営業が終わり、店内が落ち着きを取り戻した頃。
二人は遅い昼食として、自分達で作った賄いのサンドイッチをカウンターの端で食べることにした。
「ふぅ……」と、鶫は心地よい疲労感と共に、淹れたての珈琲を一口啜る。
「鶫さん、お疲れ様でした。ここのリズムは、少しずつ覚えていっていただければと存じます。モーニングは7時から11時まで、そこから14時までがランチタイムです。大体14時に店を閉めた後は、15時くらいまで翌日の仕込みをするのが、ここでの一日の流れになります」
彼岸は優しく微笑みながら、喫茶店の詳細を教えてくれた。
定休日は客入りが最も少ない水曜日。
そして、あの男女のスタッフは閻魔が最も信頼を置く二人であり、他にも閻魔と繋がりのある助っ人が時折入るため、人員の心配は全くないという。
「一番忙しい時間帯、私は学校に行っているから、あまりお役に立てない気がします。人員も足りているなら、私がいなくても店は回るんでしょうし……なんだか、申し訳ない気がしてしまって」
鶫が少し不安げに眉を下げると、彼岸は首を横に振って、温かく笑った。
「そんな事はありませんよ。次の日の仕込みというのは、地味ですが最も大切な工程です。料理上手な鶫さんがそれを手伝って下さると、私にとっては百人力です。鶫さんが厨房にいて下さる、それだけでどれほど心強いことか」
その言葉に、鶫の胸の奥がじんわりと熱くなった。
「元々は閻魔さんが、御自身がゆっくり過ごしたいがために作られた喫茶店だそうです。利益は元々度外視していると伺っていましたが、今や立派な黒字経営になっているようではありますがねえ」
「……経営手腕もあるんですね、閻魔さんって。流石というか、なんというか」
鶫は思わず苦笑し、彼岸と共に小さく笑い合った。
窓から差し込む午後の柔らかな光、落ち着いたジャズの音色、そして目の前にある温かな食事。
新しい環境ではあるが、これこそが自分が守りたかった、そして彼岸が守ってくれた「日常」なのだという確かな実感が、鶫の全身に深く、優しく染み渡っていった。
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