第七十六章:琥珀色の残光と、開かれる封印
鶫は、ひとしきり泣き腫らした顔をハンカチで拭い、ようやく呼吸を整えた。
「……御見苦しい所をお見せしてしまいました。」
赤くなった目元を伏せながら、彼女はどこか決まり悪そうに、カウンターの止まり木へと腰を下ろした。
「いえいえ、素直に涙を流せる事は、決して見苦しくは御座いません。むしろ、それだけ心が動いているという証左に御座いますから。さ、珈琲が冷めないうちに、頂きましょうかねえ。」
彼岸は、まるですべてを包み込む春の陽だまりのような微笑みを浮かべ、彼女の前に改めて皿を寄せた。
鶫は彼岸と視線を合わせ、小さく頷くと、静かに掌を合わせた。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……。」
二人の声が重なり、十回の念仏が静謐な喫茶店の中に染み渡っていく。
「頂きます。」
感謝の言葉を唱えた後、鶫はゆっくりとサンドイッチを手に取った。
あの日、殺伐とした施設の中で、彼岸と共に作ったものと同じ味。
噛みしめるたびに、共に過ごした短くも濃密な数日間の記憶が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
温かな珈琲が喉を通るたび、鶫の凍てついていた心は、少しずつ、しかし確実に溶かされていった。
穏やかな時間は、一刻一刻と過ぎていく。
サンドイッチを食べ終えた二人は、再び手を合わせ、食後の言葉と十念を丁寧に称えた。
「御馳走様でした。」
合掌を解き、深くお辞儀をした、その時であった。
「カランコロン」と、店の入り口のドアベルが軽やかな音を立てて鳴り響く。
入って来たのは、黒いサングラスに隙のないスーツを纏った男性と、同じくサングラス姿で髪を短く切りそろえた女性であった。
その異質な威圧感に、鶫と彼岸は直感的に悟った。
彼らが、あの企画の実行部隊であるということを。
「数日間のご参加、誠に御疲れ様で御座いました。内職の報酬をお渡しに参りました。」
ショートカットの女性スタッフが、感情を排した声で丁寧にお辞儀をする。
二人のスタッフは、迷いのない足取りでカウンター席まで歩み寄って来た。
男性スタッフが、A4サイズの用紙が折らずに入るほどの厚みのある茶封筒を彼岸の前へ。
女性スタッフもまた、同じ大きさの封筒を鶫の前へと、滑らせるように手渡した。
「失礼致します。」
続けて、女性スタッフがスマートな手つきでタブレット端末を取り出し、二人の目の前にセットした。
「ピッ」という短い起動音と共に、タブレットの画面が鮮明に灯る。
そこに映し出されたのは、あのおどろおどろしい「閻魔」の仮面を被った姿であった。
「ごきげんよう。鶫さんとは、再会したら名前を明かすという約束でしたが……それはあくまで直接、面と向かって顔を合わせてから、と言う事にしておいてください。モニター越しは、私の定義する『再会』のカウントには入れませんので。」
閻魔の声は、以前よりもどこか穏やかで、親しみすら混じっているように聞こえた。
「わかりました。」
鶫は、閻魔の不可思議な「遊び」に付き合うように、あっさりと返答した。
「理解が早くて助かります、聡明な美少女さん。」
画面の中の閻魔は、満足げに頷いたような気配を見せる。
「それでは、報酬の受け渡しと、今後についての説明を始めます。まずは、お手元の茶封筒の中身を確認してください。」
閻魔の冷徹な指示が飛ぶ。
鶫と彼岸は顔を見合わせ、その手に残る、ずっしりとした封筒の重みを感じていた。
その封印を解いた先に、どのような「対価」と「未来」が待ち受けているのか。
二人は息を呑み、静かに封筒の口へと指を掛けた。
---




