第七十五章:琥珀色の再会と、不適合者の福音
鼻腔をくすぐる香ばしい珈琲の香りに誘われるようにして、鶫は重い瞼をゆっくりと持ち上げた。
窓の外から差し込む陽光は既に力強く、時計の針はとうに昼を過ぎていることを告げている。
ぼんやりとした視界に映し出されたのは、木の温もりに満ちた、どこか懐かしさを覚える喫茶店の内装であった。
鶫は店内の柔らかなソファーに横たえられており、その体には厚手の毛布が丁寧に掛けられている。
「……ん」
微かな声を漏らして体を起こした刹那、背後から耳に心地よく響く、あの穏やかな低音が届いた。
「おや、御目覚めですか。善き目覚めのようで何よりで御座います。」
鶫は雷に打たれたかのように肩を震わせ、弾かれたように声の方へと視線を走らせた。
そこには、使い込まれた喫茶店のカウンター席があり、その奥に一人の男が佇んでいた。
黒い作務衣の上に清潔なエプロンを纏い、いつものように慈愛に満ちた眼差しを向けてくる。
それは、あの日、白亜の部屋で永遠の別れを告げたはずの、鶫が生涯で初めて尊敬の念を抱いた人物、彼岸その人であった。
カウンターの上には、あの日施設で共に作った記憶が鮮明に残る、二種類のサンドイッチと湯気を立てる珈琲が二人分用意されている。
「……うそ……。私、あのまま医務室で死んだのかな。あのスポーツドリンクは毒薬で、私は……もう『あの世』と言う所にいるんですか?」
鶫は夢と現実の境界を見失い、震える声でそう呟くのが精一杯であった。
対する彼岸は、愛おしむような穏やかな笑みを浮かべた。
「紛れもなく、ここは娑婆の喫茶店ですよ。私は医務室でスポーツドリンクを頂いた後、急激に眠くなってしまいましてね。気が付けばここのソファーに寝転がっておりました。阿弥陀様にお迎え頂くには、まだ修行が足りなかったようで御座いますな。」
カラン、と氷が溶けるような澄んだ音が店内に響き、それが現実であることを鶫の脳に突きつけた。
鶫の瞳から、熱い一筋の涙が溢れ出した。
彼女は転がるようにしてソファーを抜け出し、吸い寄せられるようにカウンター席まで駆け寄った。
「本物の……生きている彼岸さんですか? 夢じゃない、嘘じゃないですよね!? 本当に、そこにいるんですよね!?」
堰を切ったように、涙がボロボロと溢れ出して止まらない。
目の前にいる男の輪郭が涙で滲んでも、その温かな気配だけははっきりと感じ取ることができた。
「ええ、いかにも。私はあの企画において最悪なまでに不適合な者だったらしく、殺生に値しないとの事です。ゆえに、こうして無事に娑婆に追い返して頂きました。私と言う存在そのものが、閻魔さんの御期待に沿えなかったようで御座います。」
彼岸は自嘲気味に微笑みながらも、生還の喜びを静かに噛み締めているようであった。
その言葉を聞いた瞬間、鶫の心臓が激しく跳ね上がった。
「……私も、同じ事を言われました、不適合者だって……。良かった……彼岸さん……本当によかったっ!!」
再会できた喜びと、張り詰めていた緊張が完全に崩壊した安堵から、鶫の声は次第に大きな泣き声へと変わっていった。
鶫は両手で顔を覆い、子供のようにわんわんと大声をあげて泣き出した。
それは、あの冷たい施設の中で独り絶望の淵を歩き続けた少女の、魂の咆哮であった。
彼岸はそれに対して何も言わず、ただカウンターの向こう側から、彼女の心が晴れるのを待つように見守っていた。
ポタ、ポタと、床に落ちる涙の音だけが、祝福の雨のように店内に響き渡っていく。
彼岸は優しく微笑み、溢れ出る彼女の悲しみと喜びのすべてを、ただ静かにその慈悲の心で包み込んでいた。
---




