第六十九章:託された絆と、琥珀色の記憶
幸子の手作りサンドイッチを最後の一切れまで丁寧に咀嚼し、鶫は静かに合掌した。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」
十回の念仏を称える声に、幸子の少し低く、湿り気を帯びた声が重なる。
二人の祈りが狭い自室に溶け込み、見えない彼岸の存在が、今もすぐ側で見守っているかのような錯覚さえ抱かせた。
「御馳走様でした。」
鶫が静かに告げると、幸子も深く息を吐きながら、空になった皿を愛おしそうに見つめた。
「アタシ、この先ずっと、頂きますと御馳走様をする時、ここでの事を思い出すやろな。嫌でも、あの人の横顔が浮かんでくるんやわ」
幸子の瞳には、消えることのない「罪」の色彩が宿っている。
「……絶対に忘れたらあかんことや。彼岸さんの名前を書いてしもうたっちゅう、この罪悪感だけは……一生、この胸に刻んでおかなあかん。誰のせいでもない、アタシ自身が選んだ道なんやから。全部自分事として、一生かけて償わんとね」
自分に言い聞かせるように、噛み締めるように語る幸子の背中は、昨日よりもずっと小さく、けれど一人の人間としての確かな重みを纏っていた。
その時、「ブゥンッ!」という電子音と共に壁のモニターが独りでに灯り、閻魔の仮面が冷徹に映し出された。
「朝食は済んだようですね。それでは、幸子さんは速やかに自分の部屋へ戻ってください。帰還の準備を開始します」
「……はい。分かりました」
幸子は促されるままに立ち上がったが、部屋を出る直前、意を決したように鶫の方へと向き直った。
ギュッ……!
幸子は、鶫の細い体を力いっぱい、折れんばかりの勢いで抱きしめた。
「鶫ちゃんの事も、アタシは絶対忘れへんから。……こんなええ子が学校でいじめられてるって、そんなんおかしいわ。無理せんと逃げてもええし、もし闘うって決めるんなら、アタシも協力する。絶対に力になるって約束するからね」
幸子の温かな体温と、微かな震えが鶫の肌に直接伝わってくる。
「京都に来たら、いつでも会いにおいで。アタシの勤め先とか、住んどるところ、今教えとくさかいに……」
幸子は鶫の耳元に唇を寄せ、周囲に悟られないよう、切実な響きで自らの住所、勤務している店、そして連絡先の数字を一つひとつ、刻み込むように囁いた。
「有難う御座います。私も、幸子さんの事は生涯忘れませんから」
鶫もまた、幸子の背中に手を回し、その温もりを心に焼き付けた。
二人はゆっくりと抱擁を解き、互いの瞳に宿る決意を確認し合うと、幸子は「ほなね」と短く、けれど慈愛に満ちた声を残して部屋を後にした。
一人残された部屋で、モニターの中の閻魔が再び口を開く。
「後ほど、鶫さんにもスタッフをよこしますから、それまで部屋で待機していてください。シャワーを浴びたり、身辺整理をする時間は十分にあります」
「プツン」という音と共に画面が消え、室内に再び静寂が戻った。
鶫はデスクに座り、先ほど耳元で囁かれた幸子の個人情報を、何度も、何度も頭の中で反芻した。
京都の住所、店の名前、11桁の電話番号。
それは、地獄のようなこの場所で手に入れた、未来へと続く確かな糸口であった。
彼女は目を閉じ、暗闇の中にその情報を固定するように深く意識を沈める。
彼岸に救われた命を、今度は幸子との絆という錨でこの世界に繋ぎ止めるために、鶫は一文字の漏れもないよう、その言葉を魂の奥底へと刻み込んでいった。
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