第六十六章:継承される祈りと、静かなる誓い
翌早朝、窓のない施設内にあっても、長年の習慣は鶫の意識を正確に呼び覚ました。
重く腫れぼったい瞼を押し上げると、昨夜の絶望が澱のように胸の奥に溜まっているのを感じる。
しかし、彼女は逃げ場のない悲しみに身を任せる代わりに、機械的な動作でトレーニングウェアへと袖を通した。
冷え切った廊下を通り、トレーニングルームの扉を開けると、そこにはまだ誰の気配もなく、静謐な空気が横たわっていた。
鶫はまずランニングマシンの上で、強張った筋肉を解きほぐすようにウォーミングアップを始めた。
シュッシュッと、一定のリズムを刻む自分の足音だけが室内に響く。
体が十分に温まると、彼女は巨大なサンドバッグの前で足を止め、深く鋭い呼吸を吐き出した。
ドカッ! バキィッ!
鈍い衝撃音が、硬い壁に跳ね返って鼓膜を震わせる。
彼女は彼岸に教わった技を、一つひとつ、その感触を確かめるようにして只管に叩き込み続けた。
雑念が湧く隙間を埋めるように、意識を拳の先一点に集中させ、三昧の境地を目指して打ち込みを止めることはなかった。
その後、トレーニングマシンで己の肉体を極限まで追い込み、再びランニングマシンで息が切れるほどのロードワークをこなした。
最後にストレッチで丁寧にクールダウンを終えると、彼女の全身からは湯気が立ち上り、昨夜の涙を洗い流したかのような清々しさが僅かに宿っていた。
自室に戻り、シャワーの熱い湯に身を委ねた後、彼女は黒のトレーナーとカーゴパンツに着替えた。
髪を整え、デスクに座ったものの、やはり食堂へ向かう足取りは重かった。
彼岸のいないあの場所で、あの5人と顔を合わせ、平然と食事を摂る自分を想像することができなかったのだ。
コン、コン。
静寂を破るように、控えめなノックの音が響いた。
「……はい」
鶫が短く応じると、扉の向こう側から幸子の落ち着いた声が漏れ聞こえてきた。
「鶫ちゃん、起きてるか? サンドイッチ持って来たから、もし良かったら一緒に食べよ?」
扉を開けると、そこには皿を丁寧に包んだ幸子が、少しだけ申し訳なさそうな顔をして立っていた。
「お早う御座います。」
「お早う。ほら、二人分のサンドイッチや。卵サンドと、奮発してローストビーフサンドも作ったで。昨日から全然食べてへんやろ? しっかり食べや」
幸子は鶫に促されるまま部屋へと入り、デスク用の椅子に腰を下ろした。
「食堂に、あの男衆がおるからねえ。鶫ちゃんは、今もまだ会いたくないやろうと思てな。……正直な、アタシもちょっと、今はあの人らの勝ち誇ったような会話は聞きたくないんよ。まあ、お前が言うなとか、自分もその仲間やろって言われたら、それまでやけどね」
幸子は自嘲気味に微笑みながらも、鶫の細い肩を労るように見つめた。
「……有難う、御座います。」
鶫は心からの感謝を口にし、差し出されたサンドイッチを受け取った。
鶫はベッドの端に腰をかけ、姿勢を正して静かに目を閉じた。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」
十回の念仏を称え始めると、隣で幸子もまた、手を合わせて同じ言葉を重ねてくれた。
二人の静かな祈りが重なり合い、冷たい空気の中に彼岸の面影が僅かに揺らめく。
「頂きます。」
二人は顔を見合わせ、それから黙々と、用意された食事を口へと運んだ。
卵の濃厚な味わいと、ローストビーフの柔らかな滋味が、疲弊した鶫の身体に染み渡っていく。
それはただの栄養の補給ではなく、彼女が「生きる」という重い責任を引き受けるための、厳かな儀式であった。
彼岸から教わった、この食前の言葉と、食後の感謝。
生涯にわたって、たとえどのような暗闇の中にいようとも、これだけは絶やさずに称え続けよう。
鶫はサンドイッチの確かな歯ごたえを噛み締めながら、彼岸が守ってくれたこの命を、最後まで真っ当に生き抜くことを固く心に誓った。
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