第六十四章:凡夫の覚悟と、引き受ける命
静謐な部屋に、彼岸の穏やかな笑い声が微かに響いた。
閻魔から「転換の機」を問われ、彼は気負う様子もなく、まるでありふれた日常の思い出を語るかのように口を開いた。
「私は悟ってはおりませんし、そんな大層な事はしておりませんがねえ。ドラマチックで劇薬のような出来事があったわけでは御座いませんよ」
彼は一度言葉を切ると、遠い日の記憶を慈しむように目を細めて話し始めた。
「そうですねえ、もしもきっかけがあったとすれば……丁度40歳の時、仏教講座を受けに行っているお寺さんで座禅を組んでいた時に、ふと気づいた瞬間がありましてね。その時に、私は現世での役目を終えた、と言う感覚がありましたかな。それ以降の人生は、世間で言う所の余生のようなものになった、と言ったところでありましょうか」
彼岸は「ふふっ」と柔和な笑顔を浮かべ、死を見つめていたあの白い部屋での姿と何ら変わらぬ泰然とした態度で語る。
「何に気づかれたんです? 何か、宇宙の真理が見えたとでも?」
閻魔が仮面の奥から探るような視線を向けると、彼岸は首を横に振った。
「いえいえ、そんな高尚なものでは御座いません。ただ坐禅を組んでいる時、色々な物音が耳に入って来た瞬間があったのです。遠くの車の音や、風の音。それに、左足がわずかにしびれているのをはっきりと感じたんですな。その時、ふと気づいたのです。ああ、この耳に音が聞こえるという現象も、今ここで足がしびれているという現象も、ただただ、この身で引き受けていくのだなあ、と」
彼岸はそこで一旦言葉を区切ってから、続きを話し始める。
「その瞬間に、私の内側で何かが、すとんと腑に落ちました。この身に起こるあらゆる現象を引き受け、ひいては、生老病死という逃れられぬ苦しみを、そしてこの生命そのものを丸ごと引き受ける……。そう気づいた時に、生老病死、四苦八苦と言った逃れられぬ事に抗う心さえもが、静かに消えていったので御座いますよ」
彼岸は微笑み、まるで春風が通り過ぎるのを見守るような瞳で閻魔を見据えた。
「……それで、あなたの身に起こる全ての事象を、ただただ引き受けて生きてきた、というわけですか。たとえそれが、理不尽な死の選定であったとしても」
閻魔の声には、呆れとも畏怖とも取れる色が混じっていた。
「ええ。勿論、私も生物である以上、身の危険が迫れば対応ます。生存をかけて努力も致します。しかしその上で、最善を尽くしてなお生存できなければ、それはただただ引き受けるべき運命に御座いますから。四苦八苦、一切皆苦、これらの事柄からは、人はどうしようもなく受け身にならざるを得ない事ですからね。ならば、ただ引き受けるだけです。」
彼は静かに掌を合わせ、深々と合掌してお辞儀をした。
「……やはり、あなたは不適合者です。在家の身で仏道修行を経て気づかれたその瞬間に、生老病死を丸ごと引き受けたことで、自然と最期の覚悟も出来てしまっていた。今度から人選には本格的な面接も入れた方が良さそうです。悟って境地に達したような人や、目覚めた人を連れてこないようにしないと、企画が台無しですからね」
閻魔は、自分達の用意した「死のエンターテインメント」を無効化してしまったこの男に対し、最大級の皮肉と敬意を込めてため息をついた。
「滅相も御座いません。私は悟ってはおりませんし、目覚めてもいないかと存じます。私はただの、欲にまみれ迷いの中に生きる、煩悩具足なる凡夫に御座いますよ」
彼岸はそう言って、再び満面の笑みで合掌してお辞儀をした。
その姿は、自らを「平凡な愚か者」と呼びながらも、死という巨大な波をただ静かに受け入れた、誰よりも強靭な魂を宿した者の姿であった。
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