第六十一章:冥府の誤算と、生還の理由
静寂が支配する社長室のような一室で、漆黒のスーツを纏った閻魔が、組んでいた足を静かに組み替えた。
仮面の奥の瞳が、死の淵から戻ったばかりの男をじっと値踏みするように見つめる。
「お早う御座います、と言っても、時計の針は既に21時を回っておりますが。さあ、そちらに突っ立っていないで、そちらへおかけください」
閻魔は、まるで長年の知人を招き入れるかのような、酷く場違いで穏やかな声をかけた。
「お早う御座います。お言葉に甘えさせて頂くと致しましょうかねえ」
彼岸は淀みのない所作で、促されるままに閻魔の対面のソファーへと腰を下ろした。
彼は周囲の豪華な調度品を一度だけ見渡すと、柔和な笑みを湛えたまま言葉を継ぐ。
「こうして本物の閻魔さんがいらっしゃるという事は、私はやはり地獄行きが確定しておりましたか。浄土には行けず、今はこうして地獄の底にいるのですかな。それにしては、何とも娑婆の空気を感じますがねえ」
「残念ながら、と言っていいのか微妙なところではありますが、ここはまだ娑婆ですよ。彼岸さんに打ったのは、死に至る毒薬ではなく、ただの麻酔ですから。それと、私を本物の閻魔大王と一緒にしないで下さい。私はただの閻魔ちゃんです。ご覧の通り、ちゃんと生きて呼吸していますからね」
閻魔は皮肉めいた響きを混ぜながら、あっさりと種明かしをした。
「つまり……麻酔と絶命用の道具を、どなたかが間違えられたのでしょうか。あるいは、手違いでも御座いましたかな」
彼岸が小首をかしげて尋ねると、閻魔は仮面の下で鼻を鳴らした。
「間違ったわけではありません。こちら側の、政府としての最終決定として、あなたを殺生しない事に決めただけです。あなたの命は、まだ刈り取るべき時ではないと判断しました」
「左様でしたか。」
死を免れたと告げられてなお、彼岸は驚く風もなく、ただニコニコと穏やかに頷く。
「……普通、理由を聞くものではありませんか? 自分の命が繋がったというのに、あまりにも淡白すぎますね」
閻魔は、予想を裏切る彼の反応に、僅かな苛立ちと興味を隠せなかった。
「そちら様が、そのように決められたのであれば、それはただただ、そうなのでありましょう。縁というものは、時に人の智慧を超えたところで結ばれるもので御座いますからね」
彼岸のあまりにも達観した返答に、閻魔は深いため息を吐き出した。
「はあー……やはり、思った通りです。確信しましたよ」
「と、仰いますと?」
彼岸が穏やかに尋ね返すと、閻魔は机の上のモニターを指差しながら言い放った。
「あなたは、完全なるミスキャストです。はっきり言って、この過酷な死の選定企画において、あなたは世界で最もふさわしくない、致命的なほどに不適切な人間です。まあ、あなたを選び出したのはこちらの都合ですから、100%こっちのミスなんですがね。今回の失態を教訓に、次回からの人選プロセスは大幅に改善することにしましょう」
「おやおや、私はこの場において、それほど不適切でありましたか」
彼岸が声をあげると。
閻魔は、彼岸からは見えない向きになっているモニターの映像――泣き崩れる鶫の姿――を一瞥した。
「ええ、それはもう、最悪なまでに酷いレベルで。因みに、鶫さんも同様に、この企画には全く不適合な存在です。まさか、記念すべき初回において、イレギュラーが二人も同時に送り込まれてくるとは、天文学的な確率ですよ」
閻魔は一度言葉を切ると、ソファーに深く背を預け、冷徹な響きを含んだ声で締めくくった。
「そして……彼岸さん。あなたほど、選定される者として不適格な人物は他に存在しません。あなたは、『死者』として最も選ばれてはいけなかった人物なのです。ゆえに、今回は麻酔で眠らせるだけに留めました。あなたの物語をここで終わらせるには、あまりにも道理が通らなすぎますからね。それに、企画の趣旨にも反します」
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