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死者選定  作者: 修羅観音


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第五十八章:紅の懴悔と、揺れる水面

誰もいない静まり返った食堂に、二人の足音だけが空虚に響き渡った。

昼間の喧騒が嘘のように、広い空間は冷たい静寂に支配されている。


鶫は食欲が全く湧かず、ただ力なく椅子に腰を下ろした。

それを見た幸子は、痛ましげに目を細めると、手慣れた所作で二人分の紅茶を淹れ始めた。


「……待っててな。今は温かいもん飲むのが一番や」

幸子は、湯気を立てるカップを一つ、そっと鶫の前に置いた。


「有難う、御座います。」

鶫が掠れた声で礼を言うと、幸子は自らも椅子を引き、向かい合わせに座った。


「いっつも鶫ちゃんと彼岸さんが、こうして飲み物の用意してくれてたもんね。今朝まで当たり前の光景やったのに、何や遠い昔のことみたいやわ……」

幸子は、立ち上る紅茶の香りを吸い込むように一口飲み、それから意を決したように鶫の目を見つめた。


「……鶫ちゃん。あんたは、アタシらのこと恨んでるか? その……彼岸さんの名前を書いた、アタシを含めた5人のことや」

幸子の問いは、自分たちの犯した罪を確かめるような、怯えを含んだ響きがあった。


「……いいえ。恨んでなんていません。」

鶫は迷いのない、はっきりとした口調で答えた。


「私、最後に彼岸さんと会わせて貰えたんです。そこで、私も彼岸さんに尋ねました。彼岸さんの名前を書いて選定した5人のことを、恨んでいないのかって。」


「えっ……? 会えたんか、最後に……」

幸子は驚きに目を見開き、カップを持つ手が僅かに震えた。


鶫はガラス越しに交わした最後の会話を、噛み締めるように話し始めた。

「彼岸さんは仏教のお話をしながら、全く恨んでいないとはっきりと答えて下さいました。人は誰もが、自分自身の生命を何よりも愛しく思い、最優先するものだ。それは生物として至極当然のことであって、責めるようなことではない、と。」


鶫は、彼岸から聞いた「プラセーナジット王とマッリカー夫人」の逸話を幸子に伝えた。

自分を一番に愛しているからこそ、他者が自分を愛する気持ちも理解できるのだという、彼岸から教わった仏教の話。


「生物として生存本能がある以上、自分を守ろうとするのは仕方のないことで、誰も責めることはできない……彼岸さんは、そう仰っていました。私も、その通りだと思います。誰だって助かりたいと思うのは当然です。だから、幸子さんたちを責める気はありません。……そもそも、自分自身の死を望んでいた私には、そんな資格すらありませんから。」

鶫は淡々と、しかし確かな重みを持って言葉を結んだ。


「……そう。彼岸さんは、そんなことまで仰ってたんやな……それに鶫ちゃん、自分の事、そんな風に思うてたんやね……」

幸子は力なく呟き、琥珀色の紅茶を見つめたまま動かなくなった。


「幸子さんは、後悔していますか?」

鶫の静かな問いかけに、「……うん」と答えた後、幸子は視線を落としたまま、搾り出すように答えた。


「……死にたくない、助かりたいって、そればっかり思ってた。自分と他人のどっちを差し出すかって究極の選択を迫られたら、アタシはやっぱり他人を差し出して、自分が助かる道を選ぶよ。そして、実際にそうした。」

幸子の声は、次第に湿り気を帯び、震え始めた。


「でも……やっぱり、彼岸さんの名前を書いた以上、自分が助かりたいからって、あんなにええ人を、何の罪もない人を蹴落としたことに変わりはないんよ。あんなに優しい人を死地に向かわせた一人になったっていう事実は、消えへん。……後ろめたさも、後悔も、胸が張り裂けそうなくらいあるよ。」

幸子は、自分の中に同居する醜い本能と、消えない良心の呵責に引き裂かれているようだった。


「助かったって思ってホッとしてる自分と、フリップボードに名前を書いて彼岸さんを殺した一人になったっていう絶望的な後悔。どっちも本当の気持ちなんよ。どっちも消えてくれへんのや……」

幸子は両手でカップを包み込むようにして、うなだれた。


「今更でしかないけど……アタシ、どうすればよかったんやろか。誰かを殺さな生きられへん世界なんて、間違ってる。そんな事は頭ではわかっとるよ。でも、アタシには抗う力がなかった……」

幸子は、紅茶の揺れる水面を見つめながら、まるで神に懴悔するかのように、消え入りそうな声で呟き続けた。

その涙は、波紋となって静かに紅茶の中へと消えていった。


単なる加害者と被害者ではない、生き残ってしまった者たちが抱える「生」の重苦しさが、深夜の食堂に色濃く立ち込めていた。


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