第五十五章:断たれた念仏と、血を吐く咆哮
モニターに映る彼岸の姿は、もはや現世の住人とは思えないほどに透き通っていた。
木魚を叩く一定のリズムが部屋に響き、念仏の声が空気を震わせる。
鶫には、時間の感覚そのものが消失していた。
まだ5分も経っていないのか、それとも1時間以上もこうして見守り続けているのか、その境界は曖昧になり、ただ「彼岸」という存在の残光だけが彼女の意識を支配していた。
実際には、彼が念仏を唱え始めてからまだ3分ほどしか経過していなかったが、鶫の精神にとっては悠久の時にも等しい重圧であった。
やがて、画面の中の彼岸の体が、力なくゆらゆらと揺れ始めた。
恐らく、無慈悲な薬品の投与が開始されたのであろう。
死の毒素が血管を駆け巡り、脳を侵し始めているのは明白であった。
それでも、彼岸は木魚を叩く手を止めなかった。
その指先は震え、膝は崩れそうになりながらも、只管に、一心不乱に念仏を称え続ける。
「なむ……あみだぶ……」
次第にその声は弱まり、張りのあった声音は掠れ、消え入りそうな吐息へと変わっていく。
命の灯火が、今まさに吹き消されようとしていた。
そしてついに、運命の瞬間が訪れた。
木魚を「ポク」と弱々しく叩いた刹那、彼岸の右手からバチが滑り落ち、「カラン」と乾いた音を立てて床を転がった。
その瞳は既に静かに閉じられ、慈愛に満ちた表情のまま、意識の深淵へと沈んでいく。
そして、唇が僅かに動き、最期の震えるような呟きがマイクに拾われた。
「なむ……あみ……だ……ぶ……」
それが、彼の魂がこの世に残した最後の一片であった。
次の瞬間、彼の体は「どさり」と椅子の上から力なく転げ落ち、冷たい床の上でぴくりとも動かなくなった。
モニター越しにその光景を突きつけられた鶫は、大きく目を見開いたまま凍りついた。
画面には、物言わぬ骸と化した彼岸の姿が、残酷なほど鮮明に映し出され続けている。
10秒程の、永遠にも感じられる静止した時間の後、不意に映像が途切れ、ライブ配信は終了を告げた。
部屋を包み込んだのは、耳が痛くなるほどの静寂であった。
その刹那、鶫の中で張り詰めていた何かが、凄まじい勢いで決壊した。
「うあああああ……っ!! ああああぁぁぁ……っ!!」
喉を掻き毟るような叫びが、部屋の壁を震わせる。
たった数日。
けれど、その数日間で彼岸という人が自分に与えてくれたものは、あまりにも大きすぎた。
歪んだ世界で、自分を音無鶫という一人の人間として認め、褒めてくれ、励ましてくれた。
命そのものを肯定し、絶望の泥沼から救い出してくれた恩人が、今、目の前で失われた。
もっと他にやりようはなかったのか。
なぜ、もっとあの5人を力強く説得しきれなかったのか。
己の不甲斐なさと無力さへの激しい憎悪が、黒い渦となって彼女の心を引き裂く。
「ごめんなさい……っ、ごめんなさい彼岸さん……っ!!ぅあああああああああ……っ!!!」
後悔と悲しみ、あるいは自分自身の至らなさ、それでも彼が残した慈悲の記憶がぐちゃぐちゃに混ざり合い、彼女を狂わせる。
それでも生きて欲しいと、その命を託された重みが、鶫の細い肩に容赦なくのしかかる。
鶫は両手で顔を覆い、逃げ場のない絶望の中で床にへたり込んだ。
その慟哭は、冷徹な施設の中にいつまでも、いつまでも、血を吐くような響きを持って鳴り響き続けた。
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